1-6 カラス、コヴェントガーデンで初仕事(上)
ロンドンに居を構える者で、コヴェントガーデン市場の名を聞かぬ者などいるだろうか。否、かつてベッドフォード伯が栄えある英国王・ヘンリー八世より賜ったこの地を四代目伯爵が整備されたとは知らぬ者でも、ロンドン市民の胃袋を満たしてくれる新鮮な野菜や果実、目を楽しませてくれる可憐な花々が並ぶ市場の姿を浮かべることは容易であるに違いない。
夏にはロンドン郊外の田舎から、冬にははるかニースから運ばれてくる花々に、春の訪れを告げるスミレやサクラソウ、年中愛されるモスローズ、そしてかのディケンズが好んだという赤いゼラニウムもむろん咲き誇っている。アーケードの下をそぞろ歩き花々の芳香を肺いっぱいに吸いこめば、少々の憂鬱な気持ちなどたちまち吹き飛んでしまうだろう。
◇
カラスは首を上げてその建物を仰ぎ見た。目の前の広場には何台もの馬車が行き交い、または停車しており、その脇にはカゴや樽が今にも崩れそうな奇妙なバランスを保ち堆く積まれている。頑丈そうな建物は駅のように両横に広がり、たくさんの柱に支えられたアーケードの内部では人びとがせわしなく動いていた。おそらくここがコヴェントガーデン市場で間違いないだろう。
「……すごいな、ジョニー」
彼は手に持った紙に視線を落とし、目の前の建物と見比べて唸るように呟いた。
遡ること一時間と少し前、カラスはサラに手渡された紙を凝視していた。紙に書かれたうねる物体を矯めつ眇めつ眺めた挙句、絞り出すように感想を述べた。
「…………かわいいヘビ……だね、サラ」
「…………」
サラは彼から紙を奪うと、鉛筆と一緒にぽいとジョニーに放り投げた。ジョニーは口の端に笑みを浮かべて紙の裏側にさらさらと手を動かしていく。
「はい、できた。カラス、ここからコヴェントガーデン市場までの地図だよ」
「あ……っ、ありがとうジョニー。サラ、ごめん!」
「いいよいいよ、あたしは絵心がないのさ。お茶を持ってくるから後は任せたよ、ジョニー」
サラは四人分の器を載せたトレイを手に扉を閉めた。紙を覗きこむカラスとマリーに向けて、ジョニーが鉛筆で指し示す。
「ここが今いるマイルエンド。で、コヴェントガーデン市場はここ」
ジョニーは紙の真ん中から左寄りを指した。
「まずホワイトチャペルからフェンチャーチ通りを抜けてロンドン橋に向かう。ほんとはコーンヒルからチープサイドを通ってフリート街に抜けたほうがちょっと早いけど、カラスは土地勘があまりないんでしょ?」
「うん、あまり、っていうか全然ない……フェンチャーチ通りなら、ここに来るまでに通ってきたから分かると思う」
「じゃあ、やっぱり川沿いのほうがいいや。ロンドン橋の手前で右折してアッパーテムズ通りを西に進む。ブラックフライアーズ橋からヴィクトリア堤防に入って、ストランド街まで来たら北に抜けるとすぐだよ」
サラが運んでくれた紅茶と薄切りのトーストを食べ終えると、カラスはひとり下宿を後にしてコヴェントガーデン市場に向けて歩き出した。ほんとは地下鉄に乗ればすぐなんだけど、というジョニーの言葉が耳にこだまする。カラスは打ち消すように頭を振った。サラが貸してくれた残り一枚の銀貨(クラウン銀貨というらしい)はマリーに預けてある。これからどれだけの金が必要になるのか想像はつかないが、今は節約するに越したことはないだろう。
朝のロンドン橋は昨夜以上に混雑していた。カラスは何度か危うく馬車にぶつかりそうになりながら、橋を手前に右折して地図を確かめながら進んだ。首を左に向けると、テムズ川が太陽の光を浴びてきらきらと照り返しを見せている。煙を噴き出す大型船から小さなボートまで何艘もの船が水面に白波を立てていく。背後から鐘の音が空気を切り裂くように響き渡った。
ときおり道をすれ違う人びとは、黒い帽子とかっちりしたスーツのような服を着込んでいたり、足元までの長くて引きずりそうなスカートを身に着けていたりした。ここまで歩いてきたホワイトチャペルとは、道の舗装も人びとの装いや顔つきもずいぶん趣を異にしている。とりわけジョニーが「ヴィクトリア堤防」と呼んだ川沿いの道に入るとそれはさらに顕著になった。
ゆったりとした道の右手には等間隔で木が植えられて、左手には同様に先が球型になった街灯が立ち並んでいた。木々の間に見える道路をカラカラと馬車が通り過ぎ、その向こうには古めかしい立派な建物が根を張るように立っていた。季節は昨日までいた日本と同じく春半ばだろう。カラスは両腕を空に突き上げてぐっと伸びをした。温かな陽気が心地よく、こうして日中を歩くのはもうずいぶん久しぶりのことだと気づく。次の橋が見えてきてその先には庭園が造られているようだった。色鮮やかな草花が目に飛びこんできてカラスは思わず笑みをこぼした。これから訪れる仕事場への不安よりも太陽の下を歩いている嬉しさが勝り、目新しい周囲の景色を眺めて歩くうちに気づけば目的地へとたどり着いていた。
ジョニーの地図は迷うことなくカラスをコヴェントガーデン市場まで導き、彼はその的確な説明に改めて感嘆した。荷下ろしをする人に声をかけて店の場所を尋ねると、アーケードをくぐり中央の小路にあるという花屋のディクソンに向かう。
アルフレッドは体躯の大きながっしりとした男だった。カラスより少し年長のようで、濃い金髪と焼けた肌はいつかテレビで見たような湘南のサーファーを連想させた。教室で率先して仕切ろうとするような体育会系の男子が頭に浮かび、彼はわずかに顔をしかめた。
「へえ、サラの紹介か。なら断れねぇな。でもうちは人手が足りてるからな……なあトム! うちの卸のあいつは何て名前だった?」
店の奥にいる壮年の男が顔を上げずに答えた。
「マイケルだ。そうだな、あいつんとこなら仕事があるんじゃねぇか」
「だとさ。マイケルは火、木、土と卸に来るからそんとき荷運びをしたらいい。ちょうど明日が火曜だから朝5時前にここに来な」
「はい、ありがとうございます。あの、他の曜日は仕事はないんですか」
「ん? そうだな……どうだ、トム。この坊主になんか仕事はないかい?」
「うむ。ま、稼ぎたいなら簡単な仕事を回してやってもいいさね。たくさんは出せないが、ないよりはましだろう」
「よかったな、坊主。どうだ、今日から働いてくか?」
「え?」
「せっかくマイルエンドから歩いてきたんだ、手ぶらも嫌だろ?」
「……あ、ああ…………はい。じゃあ、お願いします……」
てっきり今日は顔合わせだけだと思っていたので、カラスはいきなり仕事を振られて内心冷や汗をかく。なにしろ人生初の仕事が今日この日、そのうえ異国の(時代すら定かではない)市場の花屋であるとは昨日まで想像すらしなかったのだ。そんな彼の様子に構うことなくアルフレッドは壮年の男と短い言葉を交わした後「こっちに来い」と声をかけた。
「おまえはサラの客なのか?」
「え…………いや、まさか!」
「へえ。いい女だよな、サラは。一度もやってないのか?」
「やっ………………ってないですっ!」
「なんだ、もったいねぇな」
「……いや、あの、アルフレッドはその……客、なんですか」
「おれ? ああ。前に仲間内でイーストエンドの娼婦と一発やれるかって賭けをしてな。いざとなったらビビっちまったあいつらを残して、おれは見事にホワイトチャペルまで行って賭けに勝ったってわけさ。どうせろくな女がいやしねぇって覚悟してったら思いがけずサラみたいな女に会えて大穴だよな」
アルフレッドの軽快な声は、不愉快な雑音のようにカラスの心をざわつかせた。
「ま、あれからずっとおれの女になれっつってんだけど、全然なびかねぇんだけどさ」
「……サラと付き合いたいってことですか?」
「ああ、まあ、そんなとこ。ま、結婚向きの女じゃないけど、遊ぶにはいい女だよな」
「…………」
な、と同意を求めるアルフレッドにカラスは沈黙を返した。どうにも胸がむかむかした。
「それにさ、付き合ったらただでやれるからな」
アルフレッドは悪びれることなくカラスに片目を瞑ってみせた。
「…………早く、作業に連れてってくれませんか」
「はは、悪ぃ悪ぃ、おれはいつも喋りすぎちまうんだ」
「…………俺、たくさん稼いでサラの客にならないといけないんで」
「へえ? そうなのか?」
「…………はい。サラの客はいつもあなたみたいな年上ばかりだから、同年代の俺と遊ぶのを楽しみにしてくれてるんです。彼女、俺のこと気に入ってくれてるみたいなんで」
「……あっそ」
アルフレッドは興をそがれたように黙りこんだ。溜飲を下げたのはわずか一瞬のことで、カラスはすぐに頭を抱えた。アルフレッドはこの職場の上司のようなものだ。昨夜の警官のように一度きりの相手ではない。当てこすりを言ったところで、アルフレッドがサラの扱いを見直すなどとは思えない。むしろ彼に目をつけられて自分の仕事がやりづらくなってしまうかもしれない。言うんじゃなかった。そんな彼の後悔に追い討ちをかけるように、アルフレッドは地下に続く階段へカラスの背中を押しやると、ばたんと手荒く扉を閉めた。
・ジョニーの地図のイメージイラストを【活動報告・挿絵一覧】に掲載しています。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/2158306/blogkey/2783042/




