1-5 カラス、マイルエンドで下宿する(下)
下宿は娼館からさほど離れておらず、通りには似たような建物が立ち並んでいた。カラスの六畳の自室を二つ並べたような広さの間口で、隣同士が触れ合うように軒を連ねている。女主人は胡散臭そうにカラスとマリーを見て眉をひそめた。「兄妹、ですか」カラスは答える代わりに、道すがらマリーに教えてもらった6シリング分の銀貨を二枚差し出した。
「今週分の家賃です」
「……まあ」
女主人はしみの浮いた手に銀貨をのせて目を凝らした。堅く引き結ばれた口元がわずかにゆるむ。
「……そうですね。サラの紹介なら、まあ、いいでしょう。コヴェントガーデン市場で働いてるんですって? でもここからずいぶん遠いけど、ランベスやセヴンダイヤルズ辺りで探したほうが良いんじゃないかしら」
「ええ……と」
耳慣れない地名に戸惑うカラスに、サラが援護するように言葉を続けた。
「K夫人とおんなじですよ。この男は厳格な父親のもとで育てられたもんで、イーストエンド暮らしといえども信仰心を捨てたわけじゃないんです……つまり、少々遠くても妹のために道徳的で清潔な環境を望んでるってわけなんです」
「あら、そう……そうね。それならうちは適当だと思うわ、サラ」
女夫人は気を良くしたようにサラに頷き、カラスとマリーに微笑んだ。
K夫人は応接間を後にすると、廊下に並んだ二部屋のうち左側の扉を開けた。
「台所と洗濯場は階段を下りた先、裏庭は洗濯物を干してもいいですよ。二階も今貸していて私は三階にいます。分からないことがあれば聞いてくださいね」
階段を上がり姿を消したK夫人を見届けて、カラスは小声でサラに尋ねた。
「あの、コヴェントガーデン市場ってそんな遠いんですか」
「は? 冗談だろ? いくら米国暮らしが長いからってコヴェントガーデン市場を忘れたなんて言わないだろうね」
「……それが、忘れたというか……そもそも場所が分からなくて」
カラスはいたたまれずにマリーを見た。マリーも小さく首を振る。
「……私もずっと孤児院にいたからあんまりロンドンの地理は詳しくないの」
サラは片手で顔を覆って大きくため息を吐いた。
「……全く、なんて世間知らずな兄妹だろうね」
カラスとマリーはきまり悪そうに顔を見合わせた。サラは右隣の扉を開けると部屋の中に向かって声を張り上げた。
「ジョニー! 客を連れてきたよ」
振り返ってカラスの手元をちらりと見て、手の平で仰ぐ仕草をした。
「あんたたち、部屋に入れる荷物もないんだろ。先にあたしの部屋においで。紹介したい奴もいるからさ」
「一緒に暮らしてる人がいるんですか」
「ああ、あたしの情夫だよ」
カラスは自分の耳を疑いながらサラの後に続いた。情夫? 情夫って、ヒモ的なアレ? え? てか自分の男がいるのに俺を誘うってありなのか? 彼の頭を潮のように疑問が渦巻いて、それでも足は機械的に彼を部屋の中に導いた。
「ジョニー、今日から隣に越してきたカラスとマリーだよ」
ジョニーは扉と向かい合わせに置かれたベッドに腰かけていた。彼と目が合ったカラスはとっさに目を逸らし、すぐにそんな自分の行為を後悔した。マリーはカラスを横目で見ると、すたすたとジョニーの前まで歩いて声をかけた。
「はじめまして。私はマリー」
「はじめまして、マリー。ぼくはジョニー。嬉しいな。先月まで隣にいたおばあさんはずっと部屋にこもりきりで退屈だったんだ。同年代の子と話すのは久しぶりだよ」
彼は右手をマリーに差し出して、にっこりと笑った。その手を握り返したマリーは笑いながら後ろを振り返る。
「ジョニー、あの人はカラス……私のお兄さんなの」
マリーの言葉に促されるようにカラスは彼の前に立った。彼女から視線を移したジョニーの顔に笑いは跡形もなく消えていた。
「……はじめまして。カラスです」
「……はじめまして、カラス。ジョニーです」
「…………ジョニー。失礼な態度を取ってすまなかった」
カラスは腰を屈めて頭を下げた。ジョニーの顔に驚きの色が浮かぶ。
「……顔を上げてよ。あんたみたいな反応には慣れてるからさ。面と向かって謝られたのは初めてだけど」
「その……どうして」
「一年前まで工場で働いてたんだ。廃材を粉砕するスクリューがぼくの足もがらくたと間違えたらしい。病院で目が覚めた時にはもうこうなってた」
頭を下げた視線の先にはジョニーの膝頭が見えた。彼の膝は布で何重にも巻かれていて、両足は膝下から切断されていた。口ごもるカラスにジョニーが手を差し出した。
「よろしく、カラス」
「……よろしく、ジョニー」
ようやく顔を上げたカラスにジョニーはにっと歯を見せて、サラのほうに振り向いた。
「サラ! マグを二つ貸してあげなよ」
「ええ? いいけどさ、あたしたちは何でお茶を飲むんだい?」
「ボウルで代用できるよ。部屋の外で何も持ってきてないって話してたでしょ?」
「……ありがとう。助かる」
「お互い様だよ。ちょうど退屈してたんだ。外には出られないしサラとは生活が真逆だし。日中サラが寝てる間ときどき話し相手になってよ」
その言葉に先程のサラとの会話を思い出し、カラスは思わずジョニーを見つめた。彼は怪訝そうにカラスを見返した。
「なに?」
「いや……その……」
カラスは他の誰にも聞かれぬようにジョニーの耳元で囁いた。
「……サラがきみのことを情夫って言ってたんだけど。その、きみはマリーと変わらない年齢に見えるんだけど……」
真剣なカラスの表情にジョニーはぷっと吹き出した。
「ああ、それ。それはサラの口癖なんだ。サラはギブアンドテイクがモットーな人だから、慈悲心でぼくを養ってるなんて絶対に認めたくないんだよ。ぼくを弟のように心配してるだなんて口が裂けても言いたくないから、情夫だなんて触れ回ってるのさ」
棚からマグを取り出すサラをちらりと見て、ジョニーが口元に指を立てた。
「内緒だよ」
カラスはほっと胸を撫で下ろして頷いた。
「ああ、分かった」
「……まァ、全くの事実無根ってわけでもないけどね」
「え?」
「ああ、なんでもない」
ジョニーは軽く首を振りながら、カラスに向かって少年らしい無邪気な笑みを見せた。
・ジョニーとサラの短編を『ヴィクトリアン万華鏡』に掲載しています。
https://ncode.syosetu.com/n3280gz/6/
・英国では建物を二階=first floor、三階=second floorと扱いますが、ここでは二階、三階と表記しています。




