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1-1 カラス、タイムトラベルする(上)

 やあ、また来たんだね。ま、ひとまず座りなよ。なにを飲む? 紅茶、コーヒー、それに緑茶もあるよ。あなたは緑茶も好きだろう? それにしても熱心だなあ。もう、あなたには全部話したと思うんだけど。粗末な部屋で男に襲われていたあの子を助けた話も、彼女を背負ってテムズ川まで逃げた話も、宿を探してホワイトチャペルを歩き回った話も。それに俺を助けてくれた娼婦のサラや、サラと暮らすジョニーの話もしただろう。コヴェントガーデン市場で出会った、男前のアルフレッドの話もね。そのあと、俺がメイフェアの館で働き始めたことは、あなたもよく知ってるだろうし。

 え、今日は最初から聞かせてくれ、だって? つまり、俺とあの子が出会う前の話から、ってこと? 確かにまだ、その話は一度もしたことがなかったね。そうだなあ……ま、いいか、あなたになら。それじゃあ、俺が彼女と結婚するまでの、この長い物語の始まりを聞いてくれ。すべては、あの日、夜明け前の東京から始まったんだ。



 夜明け前のコンビニは暗い海にぽつんと浮かぶ救難船みたいだ。自動ドアが開き、空々しい軽快な音楽がどんな客でもえり好みせず迎え入れてくれる。こんな俺でも。

 俺はドア脇に積まれた橙色のカゴを取り、メープルサンドにカレーパン、ハムと濃厚チーズのサンドウィッチ、レーズン食パン、チョコチップ入りスティックパン、アップルデニッシュ、とぽんぽんと放り投げていく。冷蔵庫の中身を頭に浮かべて牛乳も2本追加した。弟は牛乳を水と勘違いしているんじゃないか、と思うほど大量に飲む。朝食にないと困るだろう。レジ台にカゴを乗せ、目についたのど飴とライターも一緒に並べた(よかった、ライター忘れるとこだった)。支払いを済ませてドアに向かう。頭上から再び流れる音楽に紛れて、店員のひそひそ声も耳に届いた。


「久しぶりだな、カラス来たの」

「あいつ煙草吸ってたっけ」


 久しぶりかな。この前ここに来たのは、一、二、三……五日前だっけ。煙草は吸わない。でも今日は吸う。俺はウインドブレーカーの右ポケットの硬い膨らみを撫でた。この春、俺は二十歳になった。じいちゃんから贈られた誕生日プレゼントは、七本の煙草が収められた煙草ケースだった。銀製で表面に「R」(じいちゃんの名前、礼二のイニシャルだ)の文字が刻まれている。じいちゃんはひと月前に亡くなった。



 じいちゃんが死んだ朝、母さんが用意してくれた喪服を着て俺は居間に入った。その日も、普段通りに明け方までネットサーフィンして、冷蔵庫の中の夕食(世間一般では朝食といわれる時間でも俺にとっては夕食だ)をチンして食べて、家族が目を覚ます前にシャワーを浴びた。二階の自分の部屋に戻って、パジャマに着替える代わりに黒いネクタイを締めた。居間には母さん、父さん、弟が立っていて俺の足音を聞くと一斉に振り返った。母さんは戸惑いながらも口元にわずかな笑みを浮かべて、父さんは困惑した顔で、弟は軽蔑した眼差しで俺を見た。沈黙を破ったのは母さんだった。


「じゃ、行こうか」

 俺はその沈黙に負けた。家族の沈黙ですら耐えられないのに、式場で親戚中の視線にさらされて、むきだしの好奇心の餌食にされる覚悟はあるだろうか。いや、ない。絶対むり。

「……やっぱりちょっと調子悪いから、やめとく。ごめん」

「……そう。仕方ないね」

 母さんは安堵と残念さがないまぜになった表情でつぶやいた。気持ちが動きそうになったけど、父さんのほっとした顔と弟の変わらず冷めた視線を受けてこれでいいんだ、と思い直した。


 俺は高校を中退して以来、ずっと自室にひきこもっている。ずっと、っていうのは正確じゃないな。少なくとも、ほとんど一日中部屋にいる。午後の遅い時間に起きてパソコンを立ち上げて、適当に菓子パンをつまみながらネットサーフィンする。掲示板に書きこみをして動画を見て、また書きこみをする。そうするうちに、母さんがパートから帰って弟が大学から帰って父さんが仕事から帰って、一階がにぎやかになり、深夜を回る頃にまた静かになる。

 夜が更けて空が白み始める前に、俺は電源を落として階下に降り、冷蔵庫から夕食を取り出す。母さんは毎晩、俺の夕食を食卓に並べて手つかずの皿にラップをかけて冷蔵庫に入れてくれる。俺が家族の食卓から消えて、しばらくの間は部屋の前で声をかけられた。そのやり取りが数カ月続いた後、今の生活に落ち着いた。母さんも父さんも自分たちのペースを取り戻し、弟は持ち前の処世術で両親の心配を考えすぎだと言い包め、近所のうわさ話を上手くかわした。空気になれたらいいのに、と俺はときどき思う。母さん、父さん、弟、最初からその三人だけだったなら、何の問題もない完璧な家族になれただろう。



 コンビニを出て家とは反対方向に歩き、公園の北門を通り抜けた。あと二、三十分もして東の空が明るくなれば、散歩やランニングのために近隣住民たちがやって来る。俺は広場のベンチに腰かけて、プラタナスの並木を眺めた。若葉が伸びて日中はさわさわと葉をゆらす大木が、今は黒いひと塊の彫像みたいだ。レジ袋を隣に置いて、煙草ケースとライターを手に取った。商社勤めのじいちゃんは、海外出張で珍しい煙草を集めるのが趣味だった。誕生日の朝、『お祖父ちゃんの遺言で預かりました』と、母さんの一言が添えられた小さな紙袋が部屋の前に置かれていた。俺の家族は煙草を吸わない。じいちゃんは、俺が二十歳になったら、喫煙仲間に加えようと目論んでいたのかもしれない。


 煙草を一本抜き取り、口にくわえた。甘ったるい苦みが唾液と混ざる(これは……不味い)。葉巻みたいな色は見かけ倒しじゃなかった。強烈に癖が強い。俺は止めたい気持ちをこらえて火を点けた。最初の一服で盛大にむせたあと、涙目でゆらゆらと上へ、上へと消えていく煙を見つめる。火葬場の煙もこうして天へ昇っていっただろうか。じいちゃん、葬儀に行かなくてごめん。俺は目を閉じて心の中で謝った。


 再び目を開けたとき、広場に濃霧が立ちこめていた。いや……違う。霧じゃない。鬼火みたいに浮かぶ煙草の先から、白い煙がもうもうと立ち上がっている。煙は広場と俺を引き離すようにまとわりついて、俺の身体は繭みたいに包みこまれている(やばい。今、警察に職質されたら絶対怪しまれるぞこれ)。煙草の火を地面に押しつけようと屈んだ拍子に、煙が目にしみて反射的にまぶたを押さえる。煙。それは一本目の煙草に火を点けたあと、こっちの世界で俺が最後に見たものだった。

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