名前のない野良犬-4
その死体の群れは、単純な命令の下に活動する存在であった。
彼、もしくは彼女らから心電図や脳波を取ろうとしたら、その波形はどちらもフラットライン――心臓も脳も全く活動を示さず、生物学的には完全に死んだ状態であると証明するであろう。
にもかかわらず、地下通路を徘徊する屍は動きはぎこちなくとも、実際に己の足で動き回っている。
死んだ筈の人々を蘇らせ……正確には死んだ状態のまま動かしている原因は、地球の常識や技術からかけ離れたそれである事は間違いあるまい。
ただし死体を死体のまま動かすという超常現象には、やはりそれなりの代償が必要であった。
まず一目見れば分かる通り動きは鈍い。腕力は中々だが移動速度が遅いので、獲物の追跡には向いていない。
知性や思考能力も生前に比べ格段に落ちている。肉体の強度も低下しており、外部から激しい力が加わった場合には損傷しやすくなっていた。
五感に関しては、獲物を見つけるのに役立つ視覚と聴覚はそれなりに機能している。
……だが感覚器官が機能しているのと、そこから得られた情報を正しく解析して実行できるかどうかは別の話だ。
獲物を探して地下通路に押し掛けた数十体のゾンビどもは、彼らなりの全速力でもって逃げた獲物を追いかけた。彼らは知る由もないし覚えてもいないが、獲物が逃げた先の通路は防火シャッターによって封鎖されていた。
だが数十秒遅れで封鎖現場に辿り着いた生ける屍の群れを待ち構えていたのは、完全に閉め切られたシャッターのみであった。
先に逃げた筈の獲物の姿は何処にもない。忽然と消え去った事そのものは理解できた。
しかし何処に消えたのか、どうやって姿を消したのか、他に逃げ場はあるのか――といった疑問を思い浮かべ、周囲の情報から洞察するという行為にまでは至らない。それらを行うだけの脳機能すら損なわれているのだから。
その為……
ゾンビどもはシャッター近くに存在するトイレの入り口が見えているにもかかわらず、獲物がそこに逃げ込んだなどと露にも思わぬまま、通路を塞ぐシャッター前に呆然と屯する事となったのだ。
扉1枚隔ててゾンビの群れからほんの数メートルしか離れていない空間、身障者や子供連れ向けの多目的トイレに彼は潜んでいた。
かすれた呻き声でも、それが数十人分ともなればそれなりの音量と化す。老若男女様々な濁音の呻きに足音、時折シャッターへとぶつかったり叩いたりする音が、息と気配を殺す彼の下までハッキリと聞こえてきた。
ハッキリ言ってこれは賭けだ。トイレは袋小路、一応ドアは施錠したが数十人分の圧力がかかろうものなら容易に破られるだろう。
もし彼の存在がバレてゾンビの集団が押し寄せて来たらもう逃げ場は残っていない。餌食になるのか、それともやり過ごせるのか。
心臓に悪い時間が刻一刻と過ぎていく。
永遠に扉1枚向こうから響く呻き声の合唱を聞いて過ごさなくてはならないのかと、彼は思った。
それが何分経ってから起きたのかは分からない。息も気配も押し殺して耳をそばだてていると、呻き声と共に独特の摺った足音が少しずつ遠ざかっていくのを感じた。それらはやがて完全に聞こえなくなる。
諦めたのか、それとも別の理由かまでは分からないが、どうやらゾンビの群れはシャッター前から立ち去ってしまったようだ。
「…………………」
反射的に扉の取っ手へ手を伸ばすが、そのまま開けずに手だけを添え、しばしの間彼は悩む。
足音は遠ざかって聞こえなくなったが、実は扉のすぐ向こうにいるのではないかという妄想によって生み出された恐怖が彼を縛る。
行動するか、否か。
彼が選んだのは前者であった。意を決した彼はほんの数センチ、扉を動かした。片目だけ使って生じた隙間からトイレの外を窺う。
……ゾンビの姿は1体も見当たらない。
「ハァ~~……ッ」
途端、深い吐息が漏れ出し、知らず知らずの内ににきつく強張った両肩から一気に力が抜けた。
空腹感も蘇り、あまりの空きっ腹と安堵からの脱力感が重なって腰砕けにすらなりそうだったが、そこはグッと堪える。
このままトイレから出ようとした彼だったが、ふと思い直してそのままトイレ内に戻った。ドアのカギをかけ直す事も忘れない。
彼が隠れた多目的トイレは車椅子の利用者や、小さな子供連れが使用する事を前提にゆとりをもって設計されており、その面積は軽自動車ならスッポリ収まりそうなサイズである。
洋式の便器は言わずもがな、専用の洗面台もあるし作業や物置に使える折り畳み式の台や縦長の姿見も備えている。
照明そのものも薄暗くはあるが、通路の時のように点滅はしておらず、状態を確認したり何らかの作業をこなせる程度の光量を安定して放っていた。
男性用でも女性用でもない多目的トイレへ飛び込んだのは、咄嗟に目についたからという至極単純な理由からだ。
改めて内部を見回してみると広さといい、設備の充実ぶりといい、落ち着いて身の回りの整理をする空間としては普通のトイレの個室より好都合だと、遅ればせながら思う。
まず最初に彼が行ったのは洗面台に取りつく事であった。
水道は今時主流のセンサー反応式で、こんな非常時でも正常に作動してるかどうかは半信半疑だったが、センサーと水道は生きていた。
流れ出てくる水で両手を洗う。特に左手は店員ゾンビの血で汚れていたので、備え付けの液体洗剤も使って念入りに。
粗方汚れが落ちたところで、今度は両手で水を掬うと何度も口元に運んだ。水の音を生ける屍に聞きつけられるリスクなんぞ頭から吹き飛ぶ程に、空腹感が限界だった。
しばらくの間、空っぽの胃がほんのり冷えた水道水によって満たされていく快感に浸った。
飢餓感が薄れ、干ばつで枯れかけた樹木へ生命の雫が染み込むかのように、肉体全体へ水分が行き渡っていく。もしかすると単なる空腹以外にも体が脱水気味だったのかもしれない。
両の手の平で作った器に貯めた水をすすっては注ぐを何度も繰り返す。
腹八分目程度まで胃が膨れたところでようやく飲む手を止めた。水ばかりを飲み過ぎるのも体に悪い。
現金なもので、水分に満足した次は固形物が食べたくなってきた。出来れば甘いものが良い。都市部の駅なら間違いなく売店の類が併設しているのでここを出たら探してみよう。
そこまで考えたところで彼は頭を何度も左右に振り、目先の欲望を振り払った。
「落ち着け、先にやんなきゃならねぇ事があるだろうが」
姿見に移る己の姿を見やった。長くもなく短くもなく、最低限見れる程度に切り揃えただけの黒髪に、どう育てばここまでの凶相になるのか不思議なぐらい目つきの悪い少年がそこにいた。
目覚めてから真っ先に―特に袖口の仕込みを探った時点で―気付いておくべきだったが、彼は学生服姿だった。ブレザータイプの制服で、鏡の中に移る首元のネクタイはだらしなく緩んでいる。
ネクタイをむしり取ると学生服のポケットを根こそぎひっくり返し、それだけに飽き足らず一旦上着を脱ぐと裏地の部分まで目を凝らして探っていった。袖口の針金以外にも仕込みがあるかもしれない。
見つけたのは折り畳み式の財布にボールペンと、学生が持っていそうな品物ばかり。
ただしボールペンはそこいらのコンビニや文房具屋で手に入る類のものとは違う。黒の合金製で普通よりも重く頑丈、先端はやや尖っている。
「こいつはタクティカルペンか」
要はペンに護身具としての機能も持たせたものだ。
筆記用具だが立派な武器としても使える。目覚めてすぐにこれの存在に気付いていれば最初のゾンビはもう少しマシに倒せただろうに、と思う。
まぁこの手の護身用具は学生でも通販で容易に手に入るからまだ良いとして、彼が気になったのは携帯電話の類が手元に無い点か。
元々持たない主義だったのか、誰かに持ち去られたのか、自分で捨てたかは知らない。そもそも自分に関わる記憶が根こそぎ失われているのだから、理由なんて分かりっこなかった。
これで残る手掛かりは財布のみ。
財布を手に取ると中身を確かめていく。紙幣が何枚かに若干の小銭――そして学生証。
ICカードタイプの学生証の所属と住所は、ヘキサゴンシティ内で教育関連施設ばかりが集まる地区内の高校生である事を示していた。
顔写真の出来はまるで凶悪犯の指名手配書だ。家の住所も人工島の居住区である地名が書いてあるが、本当に正しい住所なのか怪しいものだと己自身を疑う。
最後に肝心要の名前欄を見た。
『武名 兵衛』――それが学生証に書かれた彼の名前。
その名前が意味するところを理解するまで何秒かの時間を要した。
そして彼は――
「明らかに偽名じゃねぇかぁ!」
絶叫しながら学生証を地面へ叩きつけるのであった。
朗報:4話目にしてようやく主人公の名前が判明 (なお)
※武名 兵衛 (たけな・ひょうえ)→武名 (むめい)→無名→名無しの(権)兵衛




