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名前のない野良犬-3





 咄嗟の備えが彼の命を救った。


 店員の姿をした動く屍はストレッチャーの存在に行く手を阻まれた。


 人間を貪ろうとしていた血まみれの歯は彼の下まで届かずに済んだが、それは一時的な話である。


 ストレッチャー越しに彼の体が店員ゾンビに押されて揺らぐ。体格は彼と似たり寄ったりにもかかわらず、その物理的重圧はかなりのものだ。気を抜いた瞬間あっさりと押し切られてしまうだろう。


 やはりこの手のお約束通り、知能は低下した分脳のリミッターが外れて馬鹿力を発揮しているようだ。もし掴まれてしまったら、よほどの事でもない限り振り払えそうにない。


 吐息がかかる程の至近距離で店員ゾンビがガチガチと歯を打ち鳴らす。どこからどう見ても彼の肉を食い千切ろうという気満々だ。



「クソッたれめ!」



 右手をストレッチャーに縛る手錠の存在が忌々しかった。このデカく重たい邪魔物が無ければさっさと全力逃走に移れていただろう。


 低い呻き声を発しつつ伸ばしてくるゾンビの両腕から少しでも遠ざかる為と、重心を低くして踏ん張りを利かせるのを兼ねて身を屈めた彼は、必死になって手錠を外そうと針金を押し込む。


 だが上手くいかない。店員ゾンビという妨害者のせいだ。さっきからガンガンとストレッチャーにぶつかっては押し込んできて、その度に針金が穴からズレたり危うく落としそうになったりの繰り返しだ。


 店員ゾンビに食われないようストレッチャーを支え、伸ばしてくる手を掻い潜りながら手錠の鍵を外そうと試みては失敗する。


 だが彼は諦めず、必死になって店員ゾンビに喰われまいと足掻きながら十数回目の手錠からの解放に挑み……


 歩みを物理的に阻む存在など目に入らない様子でまっすぐ詰め寄ろうとする店員ゾンビの足がストレッチャーへ当たり、手錠からの脱出に集中していた彼の体にこれまでよりも少しばかり強い衝撃を伝えた。


 その拍子に、細くつるりとした針金は彼の左手の中から逃げ出してしまった。



「あ」



 手を伸ばしただけでは届かない所に落ちてしまった解錠に不可欠なアイテムを、彼はしばし愕然と見つめた。


 好機とばかりに動きを止めた彼の新鮮な血肉を今度こそ貪るべく、店員ゾンビが大口を開けて身を乗り出す。


「Aaaa……」



 ……意味をなさないその呻き声が散々手錠を解く邪魔をされ続けた彼の癇に障ったのは、ある意味当然の展開だった。



「なろぉ……」



 生きたまま食われる恐怖なんぞ一気に消し飛んだ。


 憤怒が彼を突き動かす。



「っざけんなぁ!!」



 ストレッチャーの脚部分と床の間の空間から駅員ゾンビの下半身が見えているのを認識した瞬間、彼は駅員ゾンビの膝部分へ足裏を叩きつけた。


 変則的な下段への前蹴りが突き刺さると、呆気なく店員ゾンビの膝があり得ない方向へとへし曲がった。完全に膝関節を破壊されて大きく体勢を崩す。


 ガクリと崩れた店員ゾンビの頭がストレッチャーの手すりへ強かに激突した。口の中から血の塊と折れた歯が大量に零れ落ちる。



「さっきから、俺の、邪魔を、しやがって!」



 彼の方から左手を伸ばして店員ゾンビの頭部を鷲掴む。激情のままに咆えながら、今度は彼の手でもってゾンビの顔面を何度もストレッチャーに叩きつけた。



「こっちは!」



 肉が潰れる感触。



「何も思い出せなくて!」



 骨が砕ける手ごたえ。



「困ってるんだ!」



 水分を多く含んだ果実が叩きつけられた瞬間よろしく鮮血が飛び散る。


 店員ゾンビの顔面はとっくに原形を留めていない。鉄の地肌をのぞかせていたストレッチャーの手すりは今や鮮血のペンキで真っ赤に塗装された状態だ。


 普通ならこの時点で死んでいてもおかしくないレベルの暴力を振るった訳だが、彼の激情はまだ収まらない。


 彼は今や半壊した店員ゾンビの頭部をストレッチャーの手すりにめり込ませた状態で固定すると、雄叫びを上げて店員ゾンビごとストレッチャーを動かした。


 向かう先は通路の壁。


 そのまま減速する事無く突っ込む……店員ゾンビの頭部をストレッチャーと壁に挟み潰す格好で。


 ――水っぽい粉砕音を伴い、店員ゾンビの頭部は予想以上に呆気なく、半壊から全壊にクラスチェンジした。







 殴打音と罵声と呻き声が響いていた通路に静寂が戻る。


 店員ゾンビの首から下はピクリとも動かない。どうやら完全に死んだようだ。それとも死体に戻ったと言うべきか。



「……」



 頭部を失った店員の死体を前にした彼の表情は、先程までの暴力的な激昂ぶりが嘘のように落ち着きを取り戻していた。


 だがその表情は冴えない。沈んだ様子の顔は自分のもの以外の血で汚れている。


 ここまで残虐な惨状を作り出した直後というのに落ち着いていられる方がむしろおかしいのでは? そう己を客観視出来たからこそ、彼は気を落としていたのだ。



「……ハァ」



 知識といい、針金の仕込みといい、手錠で拘束された現在の境遇といい、極めつけにたった今見せた暴力性といい。


 間違いなく自分は普通……というか、まともな人間ではあるまい。


 そもそも架空の存在であった筈のゾンビがこうして出現しているこの状況こそ『普通』からかけ離れてしまっているのだが、彼には自分が発生理由そのものを知っていたどうかすら覚えていないのだ。



「汚れちまったなぁ」



 店員の頭部を掴んでいた左手もべったりと血に汚れてしまっている。


 肉が潰れ、骨が砕け、手が血にまみれる感触はしっかりと残っていた。


 だがそれだけだ。ここまで暴れたきっかけは邪魔された事への怒りだったが、その結果の惨状に対するして、彼は己や暴力への嫌悪感も、忌避感も覚えなかった。


 ただ。



(どうして俺は――) 



 こうも人を殴り壊す感触と鉄錆の臭いに嫌悪感を抱くどころか、懐かしさを覚えているのだろうか。


 彼自身、不思議で仕方がない。







 自分の服を汚すのは嫌だったので店員の服に擦り付けて血を拭った。死者を悼む感性も自分には無縁のようだ、と自嘲した。


 完全に沈黙した店員の死体から離れ、右手首にストレッチャーを引きずりながら目を細め、床に落としてしまった針金を探す。


 照明の点滅は相変わらずで、しきりに暗くなる視界と様々な物が散乱する品々の存在を鬱陶しく思いながらもようやく針金を見つけ出すと、彼は改めて手錠外しに挑戦した。


 数秒後、これまでの苦戦が嘘のようにあっさりと鉄輪の部分が緩み、手錠が外れた。


 異物感とストレッチャーの重みから解放された右手首を、彼は思わず愛おしげに擦る。


 解放感に一息つけたのも少しの間だった。


 擦るような独特の足音と呻き声がまたどこからともなく聞こえてきた。


 身構えながら反射的に、店員ゾンビが現れた非常階段への入り口を警戒する。今回も空耳ではなく、先程とは違って扉が開いている分だけ物音がハッキリと聞こえた。


 耳を澄ませてみると、彼は聞こえてくる物音が重なっている事に気付いた。


 音の1つ1つは店員ゾンビが発していたそれと同じだ。彼が殺した駅員ゾンビ以外にも生きた屍がこの施設内に複数徘徊しているのだと理解せざるを得なかった。


 彼の推測を証明するかのように、何かがぶつかる音が連続して非常階段内で生じる。その音は上から下に向かってどんどん近づいて来るかのように耳に届いた。


 次の瞬間、階段から転がり落ちてくる物体が見えた。


 その正体は別のゾンビだった。緩慢な動きで身を起こし、やがて立ち上がる。出来たばかりの傷から血を流していた。


 彼が殺した店員ゾンビもこうして階段を転げ落ちてきたせいで顔面が傷ついていたのだろう。また1人、いや1体のゾンビが上から転げ落ちてくる。


 いっその事、転げ落ちた拍子にもう1度死ぬぐらい頭部が破壊されてくれていればありがたかったのだが、残念ながら新たに現れたゾンビも何事もなかったように起き上がった。


 非常階段から出てきたゾンビ達も店員ゾンビ同様、明らかに彼を生きたまま喰らいつく気満々だ。更に後続の気配も感じる。



「チクショウめ」



 彼は非常階段の入り口から数歩後ずさると、踵を返してその場から逃げようと試みる。


 上かそれとも下か、とにかくゾンビがうろつくこの施設からの脱出路を求めて駆け出した彼は、しかし数メートル移動したところで唐突に動きを止めた。


 通路の先に広がっていた光景を一目見ればそれも当然であろう。


 ――明暗を繰り返す照明の下、通路に新たな動く屍が出現していた。


 いつの間にか何体どころか何十体ものゾンビが出現し、行く手を塞いでいた。


 どうやら店員ゾンビを倒す際に散々騒いだせいで大量のお仲間を呼び寄せてしまったのだと、彼は遅ればせながら悟る。


 回れ右をして反対側、駅に通じる方向へ向かおうとする。こちらにはゾンビの姿は見当たらなかった。


 だが行く手を非常階段から緩慢な動きで出てきたゾンビが立ち塞がろうとする。



「邪魔すんじゃねぇ!」



 血肉を食もうと大口を開けたゾンビを罵声と共に蹴飛ばした。


 足の裏から水分が抜けきった枯れ枝を踏み折った時のような手応え。肋骨を破壊されながら転んだゾンビを飛び越えていく。


 最初に店員ゾンビの頭を頭蓋骨ごと潰した時にも感じた事だが、このゾンビどもは肉体が脆くなっているらしい。流石に今回は数が多過ぎるが、鉄パイプの1本でもあればゾンビの1体や2体程度、意外と楽に仕留められそうだ。


 また蘇った死人連中の移動速度は、数あるその手の作品の中でも古い世代寄りのようである。つまりパワーは中々だが移動速度はそれほど早くない。


 彼は全速力で走った。遠ざかる背後の屍の群れをしきりに気にしながら地下通路を駆け抜ける。密閉空間に軽快な足音が空しく反響した。


 曲がり角を曲がる。


 途端に彼は足を止めた。止めざるをえなかった。


 何故なら鋼鉄製のシャッターが通路を完全に塞いでいたからだ。



「冗談だろ」



 彼は泣きたくなった。


 死神から見捨てられた屍の足音は着実に近づいてくる。






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