名前のない野良犬-2
己が何者か分からない事を自覚するなり、彼は勢い良く上半身を起こした。
またズキリと頭が悲鳴を上げたが、歯を食いしばって無視を心掛ける。苦痛を感じるのは生きているからだ、なんて陳腐な言葉が自然と頭に思い浮かんだ。
自分の事を何一つ思い出せないにもかかわらず、そのフレーズに懐かしさすら覚えたのは何故だろうか。
「落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着けぇ……」
己の境遇を何も思い出せない現実に喚き転げ回りたい衝動を念仏よろしく己に言い聞かせる事で無理矢理落ち着かせる。
同時に、そうやって実際に冷静に己を律し対応出来ている事そのものが不思議に思えた。ともかくブツブツ呟いたおかげか散り散りになりそうな思考をどうにか纏める事に成功する
まず何で自分は記憶を失っているのか、という疑問についてはすぐに答えが出た。
「頭の傷のせい、か?」
左手で悲鳴を上げる右側頭部に触れてみると一際鋭い痛みが走った。鏡が手元に無いので具体的には分からないが、触れてみた感じ最低でも数センチぐらいの傷を負っているようだ。
傷口やその周りの髪にこびりついた血は酷くべたつき、ほぼ固まってしまっている。何となくだが骨にまでは達していない気がした。骨まで傷付ける程の傷ならとっくに死んでいるか未だに意識不明のままだった筈だ。
最低でも数時間、傷を負ってからかなりの時間が過ぎているらしい。頭の傷とそれから来る痛み、おまけの記憶喪失を除けば体に不調は感じられない。
強いて言えば、酷く腹が空いていた。体中がエネルギーを欲している。
(もう少し落ち着いて考えられる場所に移るか)
とりあえず先に右手の手錠をどうにか処理すべきだと思ったので、倒れていたストレッチャーを起こしてから改めて調べてみる。
手錠はどうやらおもちゃじみた安物のそれではなく、それこそ警官が持ち歩くような日本製の本物だった。
日本のメーカーの手錠は海外製よりも構造が複雑だ。しかし道具さえあれば解錠は可能だと彼は判断した。
それからすぐさま頭を横に振った。
「どうして手錠の外し方なんて知ってるんだオイ」
堪らず独りごちながら手錠を外すのに使えそうな物を探す。頑丈な針金や安全ピン、とにかく鍵穴に差し込められるだけ細くて内部のピンを弄れるほど強度がある物なら何でもいい。
着ている服のポケットを探ろうと左手を持ち上げた瞬間、袖口にかすかな違和感を覚えた。左手を手錠のせいで可動範囲を制限された右手へと持っていき、袖口を調べてみる。
「……」
彼は無言で上着の袖口から出てきた太さ2ミリ、長さ10センチほどの針金を見つめた。
明らかにこのような手錠による拘束への対処を前提としての仕込みである。己の正体に対する新たな疑問がまた1つ増えた瞬間であった。
とにかくこの針金は太さも強度も十分そうだ。手錠の鍵穴へ差し込み外しにかかろうとする。
その直前に手錠の事ばかりに気にかけ過ぎるあまり、周囲の状況確認を怠っていた事に遅ればせながら思い立った彼はピタリと動きを止めた。
恐る恐る顔を上げ、自分の周りを改めて見回す。
現在の居場所は建物内の通路であった。屋内の通路と言っても下手な道路の上下車線並みに広く、天井も高い。
通路の照明は明らかに本来の光量を発しておらず薄暗い。通路には手錠に繋がれた彼以外の人影は見当たらなかった。
ただ誰かの所持品だった物や、立て看板や、グシャグシャになったチラシといった多くの人々が存在した痕跡については通路中に散乱している。
壁に窓は存在せず、代わりに特大の液晶スクリーンが壁面に埋め込んである。施設内のお知らせや鮮やかな広告動画を年中映していたであろう画面は真っ暗だ。
スクリーンの間を埋める格好で一定間隔で並んでいる建物の支柱には、その表面を埋め尽くさんばかりに案内板や交通マナーの注意書き、商業施設やイベントのポップ広告がデカデカと貼られていた。
最後に、彼がストレッチャーごと倒れていたすぐ近くに非常用階段へと通じる中途半端に開いた扉。
柱に張られた張り紙の1つへと彼の目は引き寄せられた。
当施設をご利用のお客様へ。そう書かれている。
「六角シティポート駅……」
口の中でその名称を転がす。
東京湾上の一大海上都市、ヘキサゴンシティに複数存在する鉄道駅の1つであると、自然に答えが思い浮かんだ。確か地下に存在する駅だった筈だ。
自身に関する記憶は思い出せなくても、一般常識や雑学の類に関する記憶は無事らしい。それが分かった彼は少しだけ安心した。
壁や天井に設けられた案内板を探してみると、現在地は六角シティポート駅と周辺施設を直接繋ぐ地下通路である事が判明した。地面の下なら窓らしい窓が見当たらないのも納得できる。
だが疑問の解決は新たな疑問を呼ぶ。
この通路の惨状は何なのか。
何故一大観光地のアクセスポイントとして多くの利用客で賑わっている筈の場所に彼しかいないのか。
……所々に見当たる、赤黒く乾いた液体の痕跡の正体と原因は?
大声を発して誰かを呼ぶ、という発想は彼には思い浮かばなかった。
彼自身かそれとも手錠の主か、誰が原因で何の為の手錠なのかはともかく、ロクな理由で手錠に繋がれる筈があるまい。人を探して接触を試みるなら手錠を外してからだ。
その思いは強迫観念に近く、誰かの姿を探すというよりかは、むしろ誰かが近付いて来ていないか警戒しているかのようにしきりに周囲を窺いながら、彼は手錠の内部機構を探り続ける。
左手1本による鍵開けは、針金を動かす左腕の動きがぎこちないせいで思った以上に難航した。どうやら彼の利き手は右らしい。
どうにか針金の先端に内部機構がわずかに動く手応えを感じた時、何かがぶつかるような物音が聞こえた。
「…………」
動きを止め、意識と感覚を聴覚へ集中させる。
また音が聞こえた。更にもう1度。空耳でも幻聴でもなく、音が近づいてきている。
何処からだ、と彼は再度見回した。
通路上にはやはり誰の姿も見当たらないし遮蔽物もない。にもかかわらず、足を引きずって歩いているかのような音は着実に彼の下へ接近しつつある。その事実が思考能力から冷静さを奪う。
「いや、これは通路からじゃない……!」
だから音の出所が通路ではなくすぐそばの壁の中、非常階段に繋がる扉の向こう側から聞こえていたのだと悟った時には、謎の音は扉1枚隔てて彼のすぐ近くにまで距離を縮めていた。
金属同士が擦れ合う音を立ててゆっくりと扉が開く。まだ彼の右手から手錠は外れていない。仕方なくせめてもの備えと抵抗として、彼は己と扉の間にストレッチャーを配置する態勢を取った。
非常階段側は通路以上に暗く、誰が開けたのか最初は分からなかった。通路側で点滅する照明の光がカメラのフラッシュよろしく、扉の中を一瞬照らす。
浮かび上がったシルエットは人の輪郭を取っていた。しばらく待ってみるが、扉の内側に立つ人物は通路に出てこようとしない。
「誰だテメェは、突っ立ってねぇで出るならさっさと出てこい」
しびれを切らして彼の方から誰何した。口から出た言葉が勝手にチンピラじみた口調になってしまった事に、彼は内心焦るが顔には出さない。
相手は無言を貫いたまま、ゆっくりと通路へと出てきた。
どこかの店の制服を着た男性だが、何やら様子がおかしい。ずるずると靴底を地面に擦りつけるような歩調で、不安定に体を揺らしている。
最初に店員を見た彼は違和感を覚えた。違和感は次いで店員の表情を認識した瞬間に悪寒へと変貌した。
店員は顔の下半分を己の血で汚していた。明らかに鼻の骨が折れている上に前歯も数本欠けていて、鼻と口の傷から血が漏れている。
傷の程度の割に出血が少ない気がしたが肝心なのはそこじゃない。問題は店員が顔に大怪我を負っているというのに痛がる様子を見せず、それ以前に店員の顔から人間らしい感情も生気も完全に失われていた点だ。
ボケ老人やクスリでトンでしまった薬中ですらまだマシに思える程に無感情な表情をしていながら、店員の両目だけはストレッチャーを挟んで身構える彼をピタリと見据えているのが一層不気味で仕方ない。
彼の中で嫌な予感が膨れ上がり続ける。人の形を取った爆発間近の時限爆弾を前にしているような気分だった。
「ゾンビ?」
自然とそんなフレーズが口から漏れる。
目を逸らしたら危険な気がして駅員にガンを飛ばし返そうとした拍子、彼は遅ればせながら普通とは違う店員の新たな異変に気付く。
照明の点滅に合わせて通路内が明るくなっては暗くなるのを繰り返す中、一瞬の闇が生じる度に店員の眼窩の中で、小さな人魂のような光が浮かんで見えた。
暗くなる。明るくなる。暗くなる。店員の姿が闇に溶けて消え、2つの人魂が浮かび上がる。
明るくなる。姿を現す。暗くなる。人魂だけが浮かぶ。明るくなる。姿を現す。
暗くなる。今まで浮かぶだけだった人魂が不意に揺れたかと思うと、急に彼との距離を詰めた。
――次に明るくなった瞬間、鮮血混じりの涎を垂れ流して両手をだらしなく伸ばしながら、大口を開けて襲いかかる店員の姿が彼の目に映った。




