幕間:ある男の発端(下)
まず、施設の封鎖から始まった。
何の前触れも無く非常用の防火シャッターが下り始めた。
本来作動時は自動的に流される筈の警報も鳴らぬまま、金属製のシャッターが下りていく作動音だけが鳴り響く。しかも複数箇所で同時にだ。
シャッター近くにいた、未だ避難し切れていなかった一般市民が慌てて閉鎖箇所から遠ざかる。駆け出して閉まりかけたシャッターの下を潜り抜ける者もいれば、反射的に後ずさり地下駅内に残った者もいた。
誘導途中の駅員や警官がシャッターの操作装置に飛びついて途中停止を試みる。しかし彼らの行動も空しく、地上に繋がるエスカレーター乗り場と近隣施設と直結する地下通路、駅の外へ出る為の出口はどちらも完全に封鎖されてしまった。
『おい、一体どうなってるんだ!』
『ちょっと開けてよ、友達が向こうに行っちゃったのに!』
早くもパニックになりかけた利用客が声を荒げてシャッターを手で叩く。
大して肉体を鍛えていない人間が拳を叩きつけた程度では、テロやガス爆発対策に特別頑強に作られた防火シャッターなど小揺るぎもしなかった。
物理的にこじ開けるには専用の機材が必要であると、このヘキサゴンシティの救急隊員である三六は職業柄嫌でも理解していた。
尤もこの手のシャッターは操作装置が使えない場合の対策に手動による開閉機構も備えているので、そこまで慌てる心配はあるまい。
『エレベーターも使えないぞ』
別方向からも誰かの声。若者がエレベーターの呼び出しボタンを連打しているがうんともすんともいわない様子。
エレベーターの制御盤を開ける鍵を手にした他の駅員が非常用の呼び出しボタンを操作するも、彼もまたすぐに怪訝そうな表情を浮かべた。正常に再起動する気配はやはり見られない。
近くで応急処置を行っていたベテラン救急隊員が作業の手を止める。携帯無線の通話スイッチを押し込み消防本部への連絡を試みた。
『本部、本部。こちら無角シティポート駅改札前、どうぞ』
スイッチを離し、受信状態に。本部オペレーターからの返信を待つ。
応答は……無い。
周波数を切り替える。近隣地域で活動中の救急隊員同士で通話する際のチャンネル。途端に呼びかけを求める雑音混じりの音声を無線機ががなりたてだす。
何度か周波数を変えて検証してみたところ、現場の隊員の標準装備である携帯無線機同士であればやり取りは可能だった。これは救急隊だけでなく警察や駅員の無線も同様だ。
この場合、相手の無線機からの電波を直接拾っては送り返す形となるが、消防本部とやり取りする際は電波障害の原因となる高層建築物が多い土地柄、人工島各所の中継局を介してのやり取りとなる。
消防本部と繋がらない原因は中継局の不備による可能性が高い。
だが1ヶ所が使えなくても支障をきたさないよう複数設置された中継局が一斉に機能不全に陥ったとでもいうのか。
『もしもーし? あれ? さっきまで繋がってたのに……』
事件が発生した時に逃げ込んで事態が収拾するまで待っていたら結果的に避難し損ねたのか、駅の改札に隣接するコンビニから一般市民らが十名ほど新たに改札前へと出てくる。
彼らは一様に首を傾げながら、手にした携帯電話を高い位置に掲げたり、しきりに画面をタップしていた。中には人工島内に複数存在する教育機関の中でも特に高ランクの高校のセーラー服を着ていながら、小学生かと見間違いそうなぐらい小柄な少女に至っては、腕を高く掲げた上にぴょんぴょんとジャンプすらしている始末だ。
ハッとなった三六は仕事用の携帯電話を胸元から引っ張り出す。女性警官もまた上着の内ポケットから携帯を取り出した。
電波状況――圏外。
Wi-Fiも接続不能。高速通信を謳う施設内無料Wi-Fiスポットの宣伝看板が一気に色褪せて見えた。
警察・消防機関の中継局どころか公共施設・民間キャリアの通信までシャットアウトされるという事態がたまたま同時に起きる?
否、偶然とは到底思えない。自衛官時代に培った知識と分析能力が最たる可能性を導き出し、自然と答えが口をついた。
『まさか……破壊工作を受けているのか?』
『それはどういう――』
三六の呟きを拾った女性警官が尋ねた次の瞬間だった。
本命が始まった。
それは陸海空であらゆる過酷な環境を経験した事がある三六ですら初めて味わう苦痛だった。
『ぐ―――――――っっっっ!!!?』
険しい崖を転げ落ちた時の痛みとも違う。
身を切り刻むような極寒の吹雪に晒された時の苦しみとも違う。
氷点下の海水に体の動きを封じられ、全身から生命活動に必要な熱とエネルギーを急速に奪われた時の感覚に似ていた。
どんどん体が重くなり立っていられなくなる。手足が動かない。重度の喘息発作の如く呼吸がままならず、最悪の心臓発作に襲われたかのように胸が激しい苦痛を伴いながら締め付けられる。
毒ガスか何らかの有害物質が散布されたのかと咄嗟に対応する事もままならぬ異常な速度で症状が進行していった。
生命活動に必要なエネルギーが苦痛を伴いながら強制的に奪われていく。手にしていた携帯が自然と床へ滑り落ちた。
悶絶しているのは三六だけではない。女性警官も、ベテラン隊員も、制服警官も駅員も負傷者も一般市民も……その場にいる者全員が区別無く苦しみ、悶え、崩れ落ちていった。未知の苦しみに朦朧とする意識。
その中で声にならない苦悶の喘ぎ声が無線機からも発せられている事に三六は気付いた。地下駅だけではない。地上でも同様の異常現象が起きている証だったが、三六にはもうどうする事も出来ない。
六角シティポート駅の特徴であるガラス屋根を見上げる格好で倒れ込む。
透明な屋根越しに広がる青空が、やけに眩しく見えた。まるで空そのものが光を発しつつあるかのように視界が白く塗り潰されていく。
実際に空が光って世界を覆いつつあるのか、それとも異常現象の影響で異常を起こした瞳孔が生み出した錯覚なのかすら判別できぬまま。
三六の意識は倒れ伏す周りの人々と同じように、光なき闇の中へと沈んでいった。
――そして唐突に現世へと浮上する。
『ばっ……か、はっ……!!』
バネ仕掛けのビックリ箱よろしく上体を跳ね起こしながら三六は意識を取り戻した。
AEDでも使われたのか、と錯覚してしまいそうな衝撃の名残を胸の中心に感じながらも周囲の状況確認を行う。
意識を失っている間に別の場所に運ばれたとかそういう事は無く、出入り口を封鎖された地下の駅のままだった。
ただ電力関係に異常が起きているようで、改札前の照明には1つも明かりが灯っておらず、コンビニの方の照明は不安定に明滅を繰り返している。陽光とは別種のほのかなトーンの明かりがガラス屋根から差し込み、地下空間に集まる人々のシルエットを浮かび上がらせていた。
多くの人々は未だ倒れたままだ。大部分はピクリとも微動だにしていないが、三六同様に意識を取り戻したのか苦しそうな呻き声を漏らしつつも身動ぎしている者もいた。
すぐ隣でも動く気配を感じたので顔を向けてみれば、女性警官が軽く咳き込みながら身を起こすところだった。
『何が起こったの……?』
三六の方が聞きたかった。
透明な屋根に見えていた青空は一転、星々が瞬く夜空へと変貌している。
真昼間から夜中、最低でも四半日もの間昏倒していたと推測していた三六は、頭上に広がる夜空に違和感を覚えた――あまりにも夜空が美し過ぎる。
ネオンがきらめき排気ガスで汚染された大都市・東京の夜空とは思えぬほど澄んだ星空。星明りもそうだが、それ以上に月光が異常に明るく感じられた。都会の喧騒から遠く離れた大自然のど真ん中でもここまでハッキリと明るくないだろう。
理由は改めて夜空を見つめれば明らかだった。
ただし、実際にその目で目の当たりにしても脳が正しく理解し、受け入れられるかはまた別の話だが。
『月が……2つ?』
三六の思考が呆然自失となりかけた刹那、文字通りの断末魔の悲鳴が彼を現実へと無理矢理引き戻した。
夜空から視線を引き剥がした三六の目に飛び込んできた光景は、赤と青の2色の月と同じぐらいに現実離れしていた。
『ぎ、ぎゃああああああああ!!』
『何をしてるんだ、止めろ、よせ……グボボボゴ……ッ!?』
人同士で襲い合っている。
正確には、片方の人間がもう片方の人間に食らいついていた。文字通りの意味で。
1人につき1人、もしくは複数で獲物へ襲いかかり、己の顎を大きく開いて血しぶきが上がるほど深く歯を突き立て、引き千切り、ハッキリと咀嚼していた――まるで映画のゾンビのように。
襲いかかる側の人種も、襲いかかられる側の人種もてんでバラバラだ。
警察官が駅員を、華奢な女性が体格の良い男性を、怪我人が健常者を引きずり倒して生きたまま貪る。地下空間に一気に濃密な血の臭いが充満していく。
襲う側は揃って生気も感情も感じられない表情を貼り付け、何より両目が人魂じみた光を帯びて発光していた。
襲われている側の人間の方はもちろん目は光っていないし、ほぼ全員恐怖と混乱で表情を歪めている。彼らの一部は食人鬼と化した人々を押しのけて魔の手から逃れたり、中には蹴ったり殴りつけたりと果敢に攻勢に移る者が出始めていた。
だが攻撃の効果はいま一つだ。胴体の急所に当たっても精々衝撃で動きが軽く鈍る程度、全く痛みを感じる素振りを見せず獲物へにじり寄っていく。
移動速度そのものはゆっくりとしたものだが、度重なる異常事態に混乱と恐怖に襲われ身が竦んでしまい、手遅れになって餌食となる犠牲者は少なくなかった。
破裂音。地下空間の壁や天井がビリビリと震えた。
襲われていた若い制服警官が恐怖と生存本能から携帯していた拳銃を抜き、発砲したのだった。
偶然か、狙ったものかはともかく、警官が放った銃弾は頭部を直撃。頭部に穴を穿たれたゾンビはいともあっさりと崩れ落ち、2度と動かなくなる。
どうやらこれまたセオリー通り、頭部への攻撃が効果的らしい。
奮戦していた生存者の1人、甘い顔立ちの青年がゾンビを仕留める方法を理解したのか戦術を切り替えた。周辺施設でのイベント用チラシを収めておく金属製のラックを武器代わりに振り回し、押し寄せるゾンビの足を狙って薙ぎ払う。
足元を刈られてもんどりうったゾンビの頭部へ続けざまにラックを叩きつけ、あるいは踏みつけ、蹴り抜く。あっという間に頭部の半壊した死体が数体量産された。
次々と止めを刺していく青年の身のこなしと躊躇いのない暴力の振るい方は、明らかに武術経験者のそれだった。
当然ながら惨劇の場に遭遇した三六もまたゾンビに獲物としてロックオンされていた。5体ほどのゾンビが三六と女性警官の下へ両腕を彷徨わせながら距離を詰めてくる姿が目に入る。
一旦脅威を認識すると三六の肉体は素早く反応していた。
傍らの男性警官の死体、レッグホルスターに収めっ放しになっていた拳銃を引き抜く。不思議な事に人々がゾンビと化している中、真っ先に蘇ってもおかしくなさそうなこの男性警官の死体だけは、最初と変わらず死んだままだった。
種類はベレッタ・M92FSバーテックス。この手の代物は自衛隊時代に何度となく扱ってきたので操作はお手の物だ。何より米軍との合同訓練時に撃たせて貰った事すらある。
安全装置を解除、ハンマーが下りていたのでスライドを引いて初弾装填。接近中のゾンビへ銃口を巡らせるまで数秒とかからない。
だが三六に出来たのはそこまでだ。銃を握り、銃口を向けるまでの一連の動作は滑らかだったにもかかわらず、ゾンビへ照準を据えた途端に全身を強張らせて固まってしまう。銃口が次第に震えだす。
人型の標的に銃口を向け発砲した経験は何度もある。
実際に人間に―生者を喰らう亡者と化していたとしても―銃口を向けたのはこれが初めてだった。
命を救う力を求めて自衛隊に入隊した。職務の一環として人の殺し方を学びはしたが、実際にそれを役立てねばならない状況はこれが初めてだった。
何より、
『隊長……!』
銃口を向けた先にいたのは三六の仲間だった。他のゾンビと同じくベテラン隊員の眼窩には不気味な光が宿っていた。
――撃つのか、仲間を。
人間だったモノを……いや、まだ間に合うかもしれない。もしかすると人間に戻れるかもしれない。そう思うと銃口の震えが、体の強張りが一層悪化した。
三六が躊躇う間にもベテランを含めたゾンビの団体は着実に距離を詰めつつある。三六はまだ引き金を絞れない。
何時の間にか女性警官もまたホルスターから自分の銃を抜いて三六と並び、拳銃の銃口をゾンビへと合わせていた。
三六と違って彼女の銃口はほとんど揺らいでいない。彼女の銃はS&WのM3913だ。
撃たないのではなく撃てないまま、三六とゾンビの間隔は着実に迫りつつあった。ガラス屋根の下まで辿り着いたゾンビ達の姿が月光によって照らし出される。
そして気付いた。
ベテランの口元と救急隊の制服を汚す鮮血、ベテランを先頭としたゾンビの団体のその向こう、意識を失う前にベテランが佇んでいた位置に転がる、原型を半ば失った犠牲者の亡骸の存在に。
『――――』
何時の間にか三六が握る拳銃の震えは止まっていた。銃のサイトの延長線上にピタリとベテランの頭部を合わせ、引き金に指を添えた。
止めなければならない。
これ以上身近な命が奪われるのであれば、その命を奪っていく存在の生命を止める事で犠牲を減らさなくてはならない。
コンバットレスキューの本質を、助ける為の技術と同時に殺す為の技術も学んだ意味を、三六は自衛官を辞めてからこの時になってようやく魂で理解した――否応無しに理解させられた。
『すみません……!』
引き金を絞る。数年ぶりに撃った銃弾は正確にベテランの額を穿った。
――見知った仲間を撃ち殺した瞬間、三六は同時に己の魂の一部が死んだのを感じた。
動画はここで途切れた。
電池切れを起こしたのか、機械的なトラブルか原因は分からないし、いちいち探る気にもならない。
役目を終えたタブレット端末の電源を落とした三六は再びベッドに寝転がり、改めて休息を取るのであった――
次回から新章。