幕間:ある男の発端(上)
雑賀三六という男が自衛隊の門戸を叩いたのは、国を守る為でも人を守る為でもなく命を救う道に憧れた為だった。
きっかけは東北地方に位置する彼の地元を襲った大災害だ。
当時学生だった彼の故郷は海底地震によって発生した大津波によって被災し、家族と共に逃げ込んだ地元の役所は地階が水没して孤立してしまう。
陸路は海水によって阻まれ、ライフラインも完全に寸断。当時の北陸は未だ雪が積もるほどに寒く、身も凍る冷気に加え続発する余震とまた津波が襲ってくるんじゃないかという心理的恐怖に苛まれる境遇を強いられた。
そんな三六の一家を救ったのが、災害派遣により空路より駆けつけた自衛隊の輸送ヘリであった。
民間とは趣が違う迷彩塗装のヘリから颯爽と降り立ち、次々と避難民を助け出していく屈強な迷彩服姿のプロフェッショナル達――
無情な大災害に打ちのめされた年頃の少年が、己のみならず家族まで救ってくれた彼らに魅入られたのは至極当然と言えよう。
彼は入隊可能年齢に達したその日に自衛隊へ志願書を提出した。
消防隊員からレスキュー隊を目指すのはよくある話。普通と違ったのは三六の脳裏に刻まれた憧れの救世主は、定番のオレンジ色ではなく緑の制服を身に纏っていた点にあった。
幸いにも彼は元来体格に秀でており、また学生時代もバリバリの運動部系として過ごしてきたので体力面も優秀だった。オツムの方も、テストで赤点を1度も取らずに済ませてきた程度にはまぁ良い方だった。
やがて候補生期間を終えて正式な自衛官として任官すると、三六はどうせならトップクラスに優れた部隊を目指そうという向上心溢れる考えに従い、航空自衛隊の救難隊入りを目指す事にした。
航空救難隊――その選抜と訓練課程は想像を絶する。
元々は友軍である自衛隊機が墜落・遭難した際の救助部隊として編成された航空救難隊は陸上・海上問わずあらゆる地形での救助活動が求められる部隊だ。
季節を問わぬ山岳での救助能力や潜水状況での活動技能、ヘリからのラペリング……それどころか飛行機からのパラシュート降下という、通常の救助隊とは一線を画す技能も叩き込まれる。勿論、同時並行して救命処置に必要な知識も身につけねばならない。
最早特殊部隊のそれに匹敵する救難員の訓練課程を、三六は学生時代に経験した被災の記憶を糧にして耐え抜いた。
教官からの罵声も。常時ヒト1人に匹敵する大荷物を背負わされてのサバイバル訓練も。何時間も冷たい水の中で潜水作業をやらされても。空挺降下訓練で高度数百メートルの虚空を初めて覗き込んだ時も。
全てが津波に没した故郷を見つめながら、何時流されるか分からない建物の上で家族と身を寄せ合って助けを待ち続ける事しか出来なかったあの時の無力感と絶望、魂すら震え上がらせる大自然の驚異に比べれば。
拷問同然の過酷な訓練で味わわされた人工的な苦痛や恐怖など、三六には屁でもなかった。
むしろ、この訓練を乗り越えれば自分はまた1つ成長出来る、人の命を救う為の力を手に入れられるのだと考えて奮い立ちすらした。
かくして雑賀三六は救難員教育課程を見事に突破し、航空自衛隊救難隊の一員となったのである。
救難員としての能力を維持する為の訓練をこなしつつ、命令が下れば陸海空問わず要救助者を助けに駆けつける日々。
実際の現場は訓練以上に過酷を極めたが、この道を選んだ事を決して後悔していない。
助けられる側だったかつての無力な少年が今度は助ける側に回る、それの何と痛快な事か。
救難員時代の三六は人生の絶頂期にあった。
時に航空自衛隊救難隊という部隊には、単純な事故・災害に対する救助任務以外にある目的、いや目標が存在する。
有事、すなわち実戦状況下における交戦空域での戦闘救難。
戦闘と人命救助を同時並行して主任務とする部隊は軍隊では特に珍しくない。
例えばアメリカ空軍の特殊作戦コマンドで救難員と同様の任務をこなす隊員をパラレスキュー、またはPJと呼ぶ。
世界各国の戦場で任務に就く彼らは孤立した負傷者を救う為なら危険な敵地に躊躇う事なく飛び込んでいく、実戦経験豊富な筋金入りの精鋭部隊である。任務内容が共通している事から、日本の救難員とアメリカのPJが合同訓練を行う事も珍しくない。
元より人命救助が任務とはいえ国防の要たる自衛隊員。当然、程度の差はあれ兵器類の取り扱いを仕込まれる。
特に三六が所属していた当時は、近隣の仮想敵国相手の軍事競争が盛んな時期だった。それもあってか最前線での活動が求められる救難員にも相応の戦闘スキルの習得が要求されたのも必然と言えた。
入隊したばかりの候補生時代の内容とは比較にならない実戦さながらの戦闘訓練が始まる。
ヘリや戦闘機を筆頭とした航空機パイロットを育成する機関としての認識が一般的な航空自衛隊、それも人命救助を主任務とする部隊が学ぶものとは思えぬ戦闘技術を、時に陸自の精鋭部隊や在日米軍からのアドバイザーも招いて必死に磨く。
すると三六本人にとっては意外な事に、彼の戦闘スキルは瞬く間に成長していった。
野外・屋内問わず機敏に動き、素早く状況に対応し、負傷者の救助・治療と並行して正確に滑らかに索敵と射撃をこなしていく三六の技量は、教官や合同で訓練を受ける他部隊の目を見張った。
それが何だというのか。自分は人の命を救う為に入隊したのだ。三六は人を殺す技術よりも救う技術をもっと高めたかった。
幸いにも、自衛隊にいる間に人を殺す為の技術を実地で活用する機会は巡ってこなかった。
不幸にも、彼は不本意な理由から自衛隊を出て行かなければならなくなった。
――演習中の事故。
大怪我による後遺症は日常生活には支障はきたさないものの、過酷を極める救難員の引退を求められるには十分なものだった。
指導する側に回る道もあっただろう。実際、部隊の指揮官や同僚からも説得された。中には話を聞き付けた基地警備教導隊―空自の基地が敵歩兵の襲撃を受けた場合を想定して設立された戦闘部隊―からの勧誘も来た程である。
だが結局、三六は自衛隊を辞めた。
自分は命を奪うよりも命を救いたい。殺しの才能を求められる位なら、自衛隊を辞めてでも現場での救命にたずさわる道に三六は固執した。
やがて紆余曲折を経て三六はペンタゴンシティでの救急救命士という職に就く事となる。
彼がこの一大海上都市の勤務に採用された背景には、第2回東京オリンピックにおけるテロ対策がある。元自衛隊員、しかも救助と救命のエキスパートという経歴は非常時に間違いなく役立つ。そう期待されたのだ。
身一つでパラシュートから飛び降りたり、険しい山や荒れた海を要救助者を抱えて駆けずり回るとまではいかないが、昼夜問わず通報を受けては救急車で走り回らなければならない救急救命士も相応に過酷だ。
自衛隊で養われた強靭な体力と命を救うスキルは新たな職場でも大いに役立った。
だが。
まさか自衛隊を辞めてからになって人を殺める為のスキルを役立てざるをえなくなるなど、三六には思いもよらなかったのである。