野良犬と生存者-5
三六による応急処置を受け終えた兵衛は、適当に空いている椅子へと勢い良く腰を下ろした。彼の体重を受け止めたキャスター付きの椅子がギシリとわずかに軋む。
次いで椅子に座ったまま床を蹴り、行儀悪くカーリングの石のように移動した。向かった先はコンビニで集めた食料品が並ぶデスクである。
空腹が限界だった。
死者が歩き回り月が2つに増えるという異常事態が発生して今日で4日。棗と剣護から具体的な時間経過を告げられた事が引き金となり、兵衛の飢餓感は更に悪化していた。
半ば勘だが、自分が昏睡状態に陥ったのはその直前だったのではないかと兵衛は推測していた。根拠はないがそう考えてもおかしくない位に腹が減っていた。
何日も絶食していたとあり、肉体がまともなエネルギーを欲してやまない。
デスクに積み重ねてある食料の多くは菓子パンやインスタント食品、派手な絵柄のスナック菓子が大半だった。
割合は少ないが缶詰も少ない割合だが混じっている。それらは真空パックされた比較的賞味期限の長い食べ物という共通点があった。
地下に閉じ込められた生存者らはまず日持ちせず、また冷蔵保存が必要なコンビニ弁当や惣菜の類から消費していったに違いない。これまたコンビニの商品だったであろう、大量のプラスティック容器が詰め込まれた半透明の大容量ゴミ袋部屋の片隅に転がしてあるのが兵衛の推測を裏付けた。
ともかく、念願のまともな食い物である。
ペット用の餌でも貪りかねないぐらい腹を空かせた今の兵衛には、絶妙に材料費をケチっているのが丸分かりな菓子パンや即席ラーメンがまさに宝の山に思えた。
ホットドッグやハムサンドといった肉系も捨てがたいが、兵衛がより強く心惹かれたのはチョコやカスタードクリームをトッピングした文字通りの意味の菓子パンである。甘味は正義。
パン生地の表面に塗りたくられた2色のクリームが艶かしく輝くパッケージにいそいそと兵衛は手を伸ばし――
がらがらがら
「…………」
もうちょっとの所で兵衛の手は届かず空を切った。
菓子パンが遠ざかった訳ではない。兵衛の方が椅子ごと遠ざけられたのだ。
「おう死にてぇかつか殺す」
「食料は分けてあげるって言ったけど勝手に食べて良いとまでは言ってないわよ!」
「うるせぇ! 俺はもう腹が減って死にそうなんだ!」
棗が怒鳴った。刺又のU字部分で兵衛の胴体を押さえ込むという、今度は正しく刺又を扱いながらの指摘である。
お預けを食らった兵衛も負けじと言い返す。そこへ苦笑いを浮かべた三六が割って入る。
「何日も食べていない時に急に固形物を食べると胃への負担が大きいからね。お粥で我慢してもらいたい」
これもコンビニで調達したに違いない、安っぽいプラスチックのスプーンと共にお粥のレトルトパックが差し出された。
三六は180センチを明らかに超えるであろう大柄かつ筋肉質な体格の持ち主であり、しかも銃で武装している。棗相手よりかは刺激を控えるべきだと判断した兵衛は、渋々お粥のパックを受け取った。
元々はレンジや湯煎で温めて食べる代物だが、袋から温かみは感じられない。ふと気になった兵衛は尋ねた。
「なぁ、せめて温めて食いてぇんだが、そこの給湯室のコンロやレンジは使えんのか?」
トイレで胃に水道水を流し込んだ分だけ体温が奪われたのか、少しばかり体の芯に冷えを覚えた。
お粥のパックは温めずに食べてOKなタイプだが、この手の食べ物は温めた方がよっぽど美味いに決まっている。
「いや。水道や照明はギリギリ使い物になるがそれ以外は……」
大柄な救急隊員は言葉を濁した。直接確かめようと兵衛自らトイレに隣接する給湯室へ向かい、据え付けコンロ式の電磁調理器の操作を試みようとする。
何度スイッチを入れ直してもコンロはうんともすんとも言わなかった。電子レンジも同様だ。
水道の方は給湯機能が死んでるのか何時まで経ってもお湯が出てこないものの、電源が入らないコンロと比べれば水が流れるだけ格段にマシと言える。
「ケッ、施設ごとブレーカーが飛んでるわりにゃ照明だきゃ生きてるってのも変な話だ」
悪態を含んだ軽口だがそれは純粋な疑問でもあった。しかし疑問を空っぽの胃からの訴えがすぐに上書きした。
駅長室に置かれた様々な品々と同じく駅員が使っていたであろう底深のフライパンも見つかったので、いっそ即席のコンロでも組んで火からお湯を沸かそうか――
なんて考えも浮かんだが、最早湯を沸かす手間すら惜しい。結局火を通さないまま妥協する事にした。
あーだこーだと騒いで貴重な体力を消耗した兵衛は、先程まで座っていた椅子の下まで戻るのもめんどくさくなり、床の汚れも気にせず給湯室から出てすぐの位置に直接腰を下ろす。
不思議なもので、一旦食事の態勢に入るとレトルトパック越しに伝わる重みがとても尊いものに感じられた。
ゆっくりとパックの封を切る。
白く濁った汁の下に白米が透けて見えた。冷えていてもわずかではあるが米特有の甘い香りが感じ取れ、兵衛の食欲を一層刺激する。
「じゅるり」
兵衛の喉が鳴った。勝手に口の中で涎が湧いて出るのを抑えきれない。
スプーンを袋の中に突っ込んで持ち上げると半固形状態の米粒が小山となって姿を見せる。ドロリとした白濁の山はしかし今の兵衛にはまるで砂金のように見えた。
そして兵衛はこぼさないように細心の注意を払いながらスプーンの先端を口元へ――
その時である。
ガチャリ、と兵衛の背後で扉の開く音が鳴ったと同時、彼の背中に衝撃が走った。床に座り込んでいた兵衛の背中に、それなりの勢いでもって開かれたトイレの扉が激突したのである。
数日ぶりの食事に完全に意識を奪われていた事が災いした。
兵衛の肉体が強制的に前へつんのめったかと思った次の瞬間にはスプーンもレトルトパックも手元からすっぽ抜けていた。
「あっ」
その決定的瞬間を目撃した誰かが反射的に声を漏らした。
1人だったかもしれないし、複数だったかもしれない。もしかしたら目撃者全員が同時に発したのかもしれない。
一拍置いてべしゃり、と嫌な感じに水っぽい音が生じた――スプーンで掬った分のお粥とパックの中身がまとめてぶちまけられた音。
貴重な食糧である筈のレトルト粥は一口も食べられる事なく床を汚す生ゴミの一部と化した瞬間であった。
突如として駅長室は気まずい沈黙に覆われた。原因はもちろん兵衛である。
「……」
立ち上がりつつ、ゆっくりと後ろへ振り返る。自然と扉の隙間から顔を覗かせた、待望の食事を台無しにしてくれた下手人と目が合う格好になった。
トイレから出てこようとしていた相手は女だった。
一言で表すなら、棗と限りなく正反対に近い見た目の人物だった。つまり髪は長く、背丈は兵衛と肩を並べる程高い。
ついでに平坦な棗に分けても平均以上を保ちそうな規模の質量を誇る胸部装甲の持ち主でもあった。仮に扉が無かったとしても、床に座り込んでいた兵衛の姿はその立派過ぎる胸の膨らみに遮られて見えなかったのではないだろうか、などと邪推してしまいそうになる程に。
猫背気味なせいで顔を隠すように垂れた前髪の間から覗く瞳は、肉体の成熟具合とは対照的に幼さを帯びていた。
……そんな威圧感を覚えるレベルの身長とグラビアモデル真っ青のバストなんぞ知ったこっちゃないとばかりに、兵衛は本気の殺意を発しながらノータイムで襲いかかった。
「テメェぶっ殺す!」
「ふぇ? ちょ、きゃああぁぁぁ!!?」
「待て待て早まるな落ち着けぇ!!」
「皆この馬鹿を止めるのを手伝うのよ!」
今度は生存者グループの武闘派総出で取り押さえられる羽目になった兵衛であった。