異世界トリップ物語に巻き込まれなかった、どこにでもいるモブ少女のおはなし。
『彼女』の名前が、最後まで出てこないのは仕様です。
それは、五月のある晩のこと。
彼女がその海辺に立ち寄ったのは、何か考えがあってのことではない。
ただ、どうしようもなく疲れていて、なのにベッドに横になってもまるで眠れる感じがしなかった。
今年の春、彼女は高校二年生になったばかり。深夜というほど遅くではないが、もう充分に濃い夜闇が辺りを覆っている時間、ひとりで外出しては咎められて然るべきだとわかっている。
それでも、自宅の二階にある六畳の自室に、なぜだかどうしてもいたくなかった。
中学に上がった年に与えられた自室には、たくさんの思い出が詰まっている。何かいやなことがあっても、自分のベッドに潜りこんで一晩眠れば、大抵のことは忘れられた。
――けれど、今は違う。
彼女は、冷たくなった指先をぎゅっと握りしめる。
昼の間、常に手の届くところにある携帯端末は、自室の机の上に置いてきた。
高校入学のお祝いとして、両親から贈られた小さな機械。
はじめて自分専用の連絡ツールを手に入れたことが、本当に嬉しくてたまらなかった。
クラスメイトや部活動を通してできた友人たちと、通信アプリのIDを交換して、他愛ない交流を楽しんだ。
これで自分も『高校生』の仲間入りができた気がして、大人たちには言えない秘密の共有に、胸が躍った。
なのに――
「……あの、スミマセン。もしあなたが入水自殺志願者なのでしたら、大変申し訳ありませんが、あと三十分ほど先延ばしにしていただけませんか? そのあとでしたら、あなたが何をしようとこちらは一切関知いたしませんので」
突然、すぐ近くから聞こえた声に、彼女はあやうく悲鳴を上げるところだった。辛うじてこらえ、振り返った先――道路から海辺へ降りる階段に腰かけていた、自分と同じ年頃の少女を見る。
少女は、いつからそこにいたのだろう。
いきなりとんでもないことを言ってこちらの心臓を飛び跳ねさせてくれたくせに、ちらりとも見ようとしてこない。
彼女の存在になどまったく興味がないといった様子で、片手で器用に携帯端末を操っている。
それきり、少女は何も言ってこない。
彼女は、むっとした。勝手に人を入水自殺志願者扱いしておきながら無視をするとは、あまりに失礼ではないか。
「ちょっと。何? いきなり。びっくりしたじゃん」
よく見れば、少女が身に着けているのは彼女と同じ高校の制服だ。さほど明るくない街灯の下、学年ごとに異なるリボンタイの色が、一年生の薄い黄色なのが見て取れる。二年生、三年生のリボンタイは、それぞれ赤と青だ。
相手が後輩なのであれば、こちらが下手に出る必要などない。
自分のことは棚上げして、高校一年生の女の子がこんな時間に外を出歩いているなんて――と、説教じみた思考まで浮かんでくる。
しかし、少女はちらりと彼女を見ると、小さく息をついた。
「そんな格好で、こんな時間にこんなところをひとりでふらふら歩いていらっしゃるのは、なぜか突然『よし、死んじゃおう』と思い立った潜在的自殺志願者か、露出狂の変質者くらいかと思ったんです。どうやら変質者ではなさそうなので、てっきり自殺志願のほうかと推察したのですが……」
違うのですか? と問いかけられて、彼女はようやく自分が着古した部屋着姿であることに気づく。
しかし、露出狂というのは、いくらなんでも言い過ぎだ。たしかに、とても人前に出るような格好ではないけれど、下着が見えているわけでもない。
顔を赤くしながら、彼女はきっと少女を睨みつけた。
相手は、階段にちんまりと腰かけている姿を見ても、かなり小柄な体格をしている。
一度も染めたことがなさそうなまっすぐな黒髪は、丸い頭のかたちがきれいにわかるボブカット。
制服にも少しも乱れたところがなく、いかにも『マジメちゃん』といった風貌である。
しかし、淡々とした抑揚の乏しい口調はひどく落ち着いていて、安易に『格下』だとみなすことを許さない。
(……なんなの、この子)
女子高生の世界は、ある意味とても非情で残酷だ。
自分たちの属するコミュニティの中で、一度序列が定まってしまえば、卒業するまでそこから抜け出すことは容易ではない。
スクールカーストの最上位に位置する、華やかで明るい笑顔の者たちと、最底辺に位置する笑顔を忘れた者たち。
平等な社会で暮らしているはずなのに、まるで王侯貴族とその奴隷のような格差があるのは、一体どうしてなのだろう。
彼女の通う高校でも、そういった序列はもちろんあった。
その中で、少しでも上位の集団に属することができるよう、みんな必死になっている。
けれど、今目の前にいる少女は、どの辺りの序列に位置しているのか、まるで判断できない。
一年あまりの高校生活の中で、そういった『目利き』がそれなりにできるようになっているはずなのに、少女のまとうどこまでも静かな空気は、彼女が今まで見たことのないものだった。
「まぁ、わたしはあなたの素性に興味はないので、どうでもいいのですが。ただ、そんなだらしない格好の人間と知り合いだと思われるのは、大変不本意です。こちらに用がないのでしたら、どこかへ行っていただけませんか」
「~~っ!」
あまりの言いように、カッと頭に血が上る。
声の響く夜だというのに、彼女は大声でわめく。
「なんなのよ、アンタ! アンタこそ、こんなとこでこんな時間に何してんの!?」
「満月が出るのを、待っています」
あまりに予想外の返答だった。
へ、と間の抜けた声を零した彼女に、少女は言う。
「太陽の出ていない時間に、海から満月が昇る瞬間というのは、とてもきれいなんですよ。日食や月食ほど、珍しい現象ではありませんが……。上手く凪の日に重なれば、海上に月の道が通るのが見えんです」
「月の、道……?」
はじめて聞く言葉を、彼女は思わず繰り返す。
「ええ。真っ暗な海の上を、満月の光がまっすぐに貫いてまるで光の道のように見えることを、俗にそう言うようですよ。個人的には、世界で最も神秘的で美しい天体ショーだと思っています」
もしやこの少女は、天体オタクなのだろうか。
戸惑う彼女に、少女はゆるりと視線を向ける。
「特に目的がないのでしたら、家に帰られてはいかがですか?」
「……やだ」
考えるより先に、なぜか言葉がこぼれ落ちていた。
「あたしも、その……月の道? 見てみたい」
「そうですか」
それきり、少女は彼女の存在に興味をなくしたようだ。
携帯端末を握ったまま、じっと海のほうを見つめている。
初対面の相手に気を遣え、などと言うつもりはないけれど、ここまで見事に存在を無視をされると、いっそ清々しいかもしれない。
少女と同じように、海を見る。
子どもの頃から何度となく見ていたはずなのに、凪いだ海面は底知れない漆黒を孕んで、まるで得体の知れないものに感じた。
ぶるり、と体が震えたのは、単に体が冷えたからか。
思わず両手で腕をさする。
「……ねぇ」
「なんですか」
どうやら、少女は声をかければきちんと反応してくれるようだ。
そのことに、少なからず彼女はほっとする。
「月の道ができるまで、あとどれくらいとか、わかるの?」
「はい。あと、十八分ほどですね」
携帯端末に視線を落とし、少女はあっさりと答えた。
どうやら、月が昇る時間は正確に把握しているようだ。
思いのほか待ち時間が少なかったことに、ほっとする。
しかし、まだ初夏というにも早いこの時期、夜風に吹かれてじっとしていると、さすがに寒くなってきた。
気を紛らわすために、彼女は口を開く。別に、少女との会話を期待していたわけではない。ただの、時間つぶしだ。
「……あたし、さ。あんたと同じ高校の、二年なんだけど。なんか最近……すごく、疲れるんだよね」
答えはない。
彼女は苦笑し、ぼそぼそと続ける。
「一応……うん。一応、仲よくしてるコとかは、いるんだけど。一緒にいても、息苦しいっていうか……。自分でも、無理して周りに合わせてるんだな、って……自覚しちゃった? みたいな」
はじめから、少し背伸びをしすぎたかな、とは思っていた。
彼女は本来、あまり気の利くタイプではない。小学生の頃は、みんなでわいわい騒ぐよりも、小人数の仲よしグループで、のんびり花壇や水槽の世話をしているほうが好きだった。
だが、今の彼女が所属しているのは、中の上――どちらかといえば、華やかで気の利いた少女たちで構成されたグループだ。
高校入学を機に、違う世界を見てみたくなった。
根拠のない自信と希望を胸に、外見を整えることにそれまでの十倍以上の時間をかけ、周囲の少女たちが追いかける流行にアンテナを巡らせる。
……最初の頃は、それが本当に楽しかった。
高校生になったことで、一気に大人に近づいた気がしていたのだろうか。
同じグループの少女たちと、あまり親には言えないちょっとした秘密を共有することが、ひどくわくわくして、同時にどこか誇らしかった。
けれど、いつからだろう。
いつしか彼女は、周囲の少女たちの織り成す空気に、違和感を感じるようになっていた。
とはいえ、今更所属するグループを変えることなんて、できるわけがない。
流行りにはほどよく敏感で、でも決して先取りはしすぎないように。
気になる男子の話は必須だけれど、同じグループや上位グループの女子が本気で狙いにいっている相手の場合は、絶対に本気モードは避けること。
謙遜は、大事。でも、謙遜しすぎるといやみになる。
自慢話は、絶対に駄目。でも、誰かが自慢話をしたときには、全力で褒めなければならない。
数えきれないほどの暗黙のルールに、いつしかがんじがらめに締め付けられている気分になった。
それでも、呼吸がしにくいのを無視して、『友達の輪』に入れていることが嬉しくてたまらない、というように、笑って――ちゃんと、笑っていたはず、なのに。
「それで……通信アプリのグループトークも、うっかり無視しちゃったらどうしようとか、怖くなって。成績が落ちたから、親に九時以降は携帯端末を没収されることになっちゃった、なんて嘘までついて……」
いつの間にか、しゃがみこんでいた。
……一体、自分は何をしているんだろう。
初対面の後輩に、友人関係の愚痴をだらだらと吐き出すなんて、我ながら恥ずかしすぎる。
と、少女が先ほどまでと同じ、抑揚に乏しい声で口を開く。
「別に、普通ですよ。それくらい」
「……え?」
視線を向けた先、少女はこちらを見もせず続ける。
「対人関係に悩んで落ち込むのも、それをまるで世界の終わりが来たかのように感じて、激しい自己嫌悪と自己否定に陥るのも。思春期の人間が抱える葛藤としては、ごく一般的なものです。あなたは、今高校二年生なのでしょう? だったら、二年後には今の人間関係はいやでも消滅します。多少失敗したところで、長い人生の中でのたかが二年間を、少々居心地悪く過ごすだけのことです。さほど気にやむようなことではありませんよ」
さらさらとよどみなく告げられ、彼女は顔を引きつらせた。
自分が夜も眠れなくなるほど悩んでいたことを、完全に無価値なものだと断じられたのだ。
しかも、その言い分に反論できるだけのものを、彼女は何も持っていない。
ぎゅっと、拳を握りしめる。
「あ……あんたねぇ!? それでも、あたしと同じ女子高生なの!?」
理不尽だ。
同じ高校に通っているくせに、なぜこの少女はこんなにも静かな空気の中で生きている。
自分は、こんなにもどろどろと重苦しい空気の中で生きているのに。ずるい。悔しい。
そこでようやく、少女が振り返った。
「私は、あなたとは違います」
「……っ」
「あなたにはあなたの悩みがあるように、私には私なりに悩んでいることがある。どんなくだらないことに悩むのかは、人それぞれでしょう」
ぽかんと、彼女は目を丸くする。
「……あんたにも、悩みがあるの?」
「ありますよ、悩みくらい」
まるで、当然のことのように返された。
……いや、考えてみれば悩みのひとつもない人間など、いるわけもないとは思う。だが、このどこまでも静謐な空気をまとう少女が、何かに悩んでいるというのは――なんというか、ものすごく似合わない。
彼女は、なんとなくどきどきしながら少女に問う。
「えっと……何に、悩んでるの?」
「申し訳ありませんが、初対面の人間に簡単に吐露できるようなものではありません」
う、と彼女は詰まった。
これまた、考えてみれば当たり前の話である。
先ほどの自分のほうが、少しテンションがおかしかったのだ。
けれど――
(……悔しい、けど。なんか……ちょっとだけ? ラクになった感じが、しないでもないっていうか)
腹が立った。ばかにされたようで、むかついた。
同時に、少女の歯に衣着せない発言は、確かに彼女の呼吸を少しだけ楽にしたのだ。
たかが二年間、なんて簡単に思うことはできない。自分にとって、学校での友人関係はそんなに軽いものじゃない。
それでも、全部が駄目になってもそれで人生が終わりになるわけじゃない、と明確に断じられたことで、『逃げてもいいのだ』と言われた気がした。
友人関係が、上手くいくに越したことはない。
ただ、それが人生のすべてではないのだと――何かが、許された気がしたのだ。
彼女は、ぽつりと言う。
「あんたは、めちゃくちゃ賢そうだもんね。あたしのとは、全然違う悩みなんだろうな」
「はい」
あっさりと、答えが返る。
「え。何? あんた、そんなに賢いの?」
「そうですね。少なくとも私は今まで、一度見聞きしたものを忘れたことはありません」
まったく気負ったふうもなく言われ、彼女は顔をしかめた。
いくらなんでも、それは話を盛り過ぎだ。
「はぁ? そんだけデキのいいのーみそを持ってるんだったら、なんでウチの学校に入学したのよ?」
彼女たちの通う高校は、大学への進学率が低くもないが、周囲に自慢できるほど高くもない。
冗談なら、もっと冗談らしい口調で言え、と思いながらの問いかけに、少女は淡々と応じる。
「幼馴染が、この高校へ進学すると言ったので」
「……は?」
間の抜けた声を零した彼女に、少女は言う。
「私は、知能指数だけは非常に高いらしいのですが……。残念ながら、一個の人間としては大変な欠陥品なんです。社会性が著しく欠如していて、幼馴染がそばにいなければ、まともな思考や判断がまるでできなくなる」
たとえばですが、と少女は携帯端末を見た。
「私はその気になれば、あなたの人生をいつでも破滅させることができます。――デジタル画像というものが、どれほど簡単に編集できるものかご存じですか? ネット上に溢れている若い女性の裸の写真と、あなたがネット上にアップした自撮り写真。それらを合成した画像を、事実無根の噂話とともに、同じ学校の生徒がよく利用しているSNSやネット掲示板に流出させるくらい、ものの数分でできますよ」
ひ、と引きつった声が、彼女の喉を震わせる。
今まで、何も考えずにネット上にアップしてきた、自撮り写真。まさかそれが、そんなことに使われる可能性があるものだなんて――
「まぁ、それは立派な犯罪なわけですし。バレない自信はありますが、万が一のことがあってもいやなので、実際にするつもりもないのですけれどね」
「あ……当たり前、でしょ……!」
蒼白になってどうにか言葉を絞り出した彼女を、少女はまるで感情の透けない目で見る。
「私にとって、そういった犯罪行為に対する抑止力になり得るのは、幼馴染だけなんです。幼馴染が悲しんだり、彼女のそばにいられなくなる可能性が少しでもある自分の行動を、私は絶対に否定する。ただ――私の行動で、あなたがどれほど傷つくのか、あなたを大切に想う人間がどれほど苦しむのか。そういったことは、私にとってまったく抑止力になり得ない」
それが当然のことのように、少女は言った。
「なんの悪意も理由もなく、もちろん罪悪感なんてものなどかけらもなく。ただ『なんとなく気が向いたから』という理由で、簡単に無関係な他人を傷つけることができる。私は、自分がそういう人間であることを知っています。だから、その抑止力となる幼馴染自身に拒絶されないかぎり、私は彼女のそばにいる。何か、問題がありますか?」
問題だらけだ、と咄嗟に思う。
けれど、一体何が問題なのかを彼女は明確に指摘できない。
ただ、怖い。
目の前にいる少女が、突然得体の知れない化け物に変じたかのような恐怖に、全身が鳥肌立つ。
無意識に彼女が一歩後ずさったとき――
「ああぁああー! 見つけた! ユナ! うわぁああん、間に合った!? わたし、間に合ったよね!?」
突然、騒々しい泣き声とともに、どーんと少女に突撃する勢いで抱きついたのは、同じ制服を着た少女だった。
背が高く、少しクセのある長い髪をポニーテールに括っている。
きれいな子だ。
化粧などしなくても、ぱっと人目を引く華やかさがある。周囲の少女たちとの身長差が、そのまま手足の長さなのだろうな、と思うほどスタイルがいい。
ユナと呼ばれた少女は、まるで驚いたふうもなく淡々と応じた。
「見ればわかるでしょ。むしろ、タイミングばっちり。――もうすぐ、できるよ。月の道」
(……え?)
抑揚に乏しい口調はそれまでと変わらないのに、少女の声がひどく柔らかい。
相手に心を許していることがわかる、どこか甘える響きさえ滲ませた声だ。
この長身の少女が、おそらく件の幼馴染なのだろう。
「よ……よかった……! ユナがせっかく見せてくれるって言ったのに、間に合わなかったらどうしようかと思ったようぅ……」
めそめそと嘆く相手の背中を、少女は笑ってぽんぽんと叩く。
「なんで、こんなギリギリになっちゃったの?」
「ホンット、それね! 聞いてよ、ユナ! もうもう、本家の連中ときたら、なんっで今日に限っていきなりウチのアパートに来るかなぁ!? とっくの昔に死んだ愛人の子なんて、適当に養育費だけ払って放っておいてくれればいいのにさー!」
……なんだか、いきなりディープな話がぶちこまれた。
そんなセンシティブな問題を、赤の他人の前で話していいのだろうか。
小柄な少女が、こてんと首を傾げる。中身がサイコパスじみた犯罪者予備軍だと知らなければ、大層可愛らしい仕草だった。
「ツブす?」
その瞬間、「ナニを!?」と内心で絶叫した自分は悪くない、と彼女は思う。
長身の少女は、曇りのない笑顔で口を開いた。
「大丈夫! ユナの言う通り、マジメなふりしてあっちの喜びそうなこと言ってやったら、わりとすぐ帰っていったから!」
「そう、よかった。ああいう連中は、真面目そうに見える子どもは『いい子』に違いない、って思いこんでくれるところが、扱いやすくて助かる。二十歳までは『いい子』のフリをして、がっつり養育費をふんだくってやるといいよ。――ツブすのは、そのあとでいくらでもできるからね」
「うん!」
嬉しそうに、長い髪を揺らした少女がうなずく。
それは一見ほほえましい光景のようにも見えるが、彼女は背筋を冷や汗が伝っていくのを感じた。
いちいち物騒なことをいう少女もなんだか怖いが、それを当然のように受け入れているというのも、はっきり言って普通ではない。
「それより、今日までずっと、いろいろがんばって月の道のこと調べてくれたんでしょ? ありがとー、ユナ! 大好き!」
ぎゅうぎゅうに相手を抱きしめながら、てらいなく言った長身の少女は、ようやくすぐそばで呆気に取られている彼女に気づいたらしい。
ありゃ? と首を傾げて見つめてきた。
「えっと……ユナの、知り合い? ですか?」
彼女が応じるより先に、少女が「違う」と即答する。
「偶然、ここで会っただけ。この人も、月の道を見たいんだって」
その言い方では、彼女がわざわざ月の道を見るためにここへやってきたかのようだ。
しかし、訂正する間もあればこそ、長身の少女が感心したようにうなずく。
「すごいですねぇ。ユナはすっごく頭がいいから、日の入りと月の出の時間とか、月の昇ってくる方位とか――あ、あと、気圧配置図なんかを計算して、月の道がキレイに見られる場所と時間を割り出してくれたんですけど。同い年くらいの女の子で、ユナと同じことができる人がいるなんて思いませんでした」
彼女は、絶句した。
(スイマセン。あたしが今ここにいるのは、ただの偶然です!)
思い切り絶叫したいのは山々だったが、話がややこしくなるだけの気がして、口をつぐむ。
そして――
「……リオン。そろそろだよ」
少女の声が夜の空気を震わせた、数秒後。
星明かりばかりを映していた漆黒の海に、一条の光が通った。
淡い金色の絹糸のように細く儚い光が、少しずつ存在感を増していく。
瞬きをするのが、惜しい。
美しさに心が震える瞬間というのを、彼女は生まれてはじめて経験した。
海面を走り抜けた月光は、打ち寄せる波にほろほろと崩れながらも、目の前の浜辺にまで到達する。
すごい、と興奮しきった声でつぶやいたのは、長身の少女だ。
「すごい、すごい! めちゃくちゃキレイー!!」
歓喜の叫び声を上げるなり、ぱっと浜辺に向かって階段を駆け下りていく。
砂の上を走る途中で靴を脱ぎ、それに脱いだ靴下を詰めたものを指先に引っ掛けながら、少女はためらいなく揺らぐ月の道の中に飛びこむ。
水平線の向こうに見える月に向かって、大きく両手両足を広げて見せる様子は、興奮しきった子どものようだ。
「ふおぉおおー! わたしは、今! 月の道の中におります!」
「ハイ、リオン。こっち向いてー」
呼びかける声の主を見れば、いつの間にか携帯端末で写真撮影をはじめていた。
パシャパシャとシャッター音を響かせながら、少女は手のひらサイズのデジタルカメラを制服のポケットから取り出す。
少女は、呆気に取られている彼女に向けて、電源を入れて設定をたしかめたデジタルカメラを差し出した。
「すみません。これで、動画の撮影をお願いしてもいいですか? この状態でシャッターを押せば、撮影がはじまりますので」
「はい?」
目を丸くした彼女に、少女は言う。
「わたしの携帯はあまりデータ容量が大きくないので、動画の撮影には向いていないんです」
彼女は、頬をひくつかせた。
「……それって、月の道ではしゃぐ可愛い幼馴染の姿を、写真と動画の両方で保存しておきたい、ってこと?」
「はい」
ノータイムでうなずかれ、彼女はどこかあきらめにも似た境地で動画モードになっているデジタルカメラを受け取った。
少女の幼馴染はともかく、この美しすぎる月の道を記録しておくことについては、まったくやぶさかではない。
液晶画面を見ながら、撮影を開始する。
と、長身の少女が満面の笑顔でこちらを見た。
ぶんぶんと大きく腕を振り、携帯端末を構える少女に呼びかける。
「ユーナー! ユナもこっちに来て! めっちゃ気持ちいーよー!」
(……はぁ!?)
少女のしなやかな体が、まるで重力を無視したかのような動きでふわりと舞う。
なんの助走もなく、浅瀬とはいえ足場の悪い海の中で、きれいに後方宙返りを決めたのだ。
跳ねた海水の滴が、月光を孕んできらきらと眩く輝く。
一体どういう運動神経をしているのか――と唖然とした彼女は、自分に向けられる鋭すぎる視線に気づいた。
すぐそばにいる少女が、『今の、きちんと撮っただろうなゴラァ』という目で見ている。怖い。
彼女は、だらだらと冷や汗を垂らしながら、無言で親指を立てて見せた。
「ちゃんと撮ってマスヨ!」という必死のアピールは、どうやら通じたらしい。
よし、というようにうなずいた少女が、海に向かって歩き出す。
月の道は、ますます太くなってきていた。
もうすぐ満月が、その真円の姿を海上に現しそうだ。
そんな幻想的な光の中、ふたりの少女が楽しげに戯れている。
まるでサイレントムービーのような光景に、彼女は知らず息をひそめていた。
きれいだ、と素直に思う。
今、自分の前にある風景には、なんの醜さも存在しない。
この世界には、息苦しくて辛いことがたくさんある。
たとえ他人から見たらどんなにくだらない痛みでも、当事者にとっては耐えがたい痛みになることもあるのだろう。
他人の悩みを笑うなんて、絶対にしてはいけないことなのに、平気でしてしまう人間がいるのも、知っている。
それでもこの世界には、こんなふうにただひたすらに『きれいだ』と思えるものだって、ちゃんとあるのだ。
だから、大丈夫。
生きていける。
自分の生きている世界は、そんなに怖いばかりの場所じゃない。
たとえ何かに失敗しても、やり直すことができなくても。
すべてがいやになって投げ出したくなったときには、泣き喚いて逃げることは許されている。
だから、怖くてもいい。
怖くても、一度逃げて、怖かったものが怖くなくなる方法を探せばいいだけなのだ。
そんなふうに思い、なぜか目の奥が熱くなったとき――
(……え?)
――月の道の淡い光の中から、少女たちのシルエットが消えた。
何度も瞬きをして、デジタルカメラの液晶画面と現実の海辺を何度も見比べる。
たしかに、ほんの一瞬前まで淡い光の中にいたはずのふたりの姿が、どこにもない。
まさか、ふたり揃って海の中で転んでしまったのだろうか。
それにしては、なんの音も悲鳴もなかった。
彼女はデジタルカメラを持ったまま、階段を駆け下りた。
「ねぇ! ちょっと! どうしたの、大丈夫!? ねぇってば……!」
なぜだか、ひどく胸が騒いだ。
引きつった自分の悲鳴が、耳の奥で反響する。
怖い。
どうして、こんなに怖くてたまらないのか。
わからないまま、彼女は靴を履いたまま海の中へ踏み込んだ。
ほんの少し前まで、少女たちがいた月の道。
せっかくの美しい光の揺らめきが乱れるのも構わず、冷たい水の中を足をもつれさせながら進む。
「ねぇ、返事してよ! どこ行ったのよ! やだ……嘘、なんでいないの……!?」
凪いだ浅瀬は、溺れようと思っても溺れられるようなものじゃない。
ゆったりと寄せて返す波は、ひどく優しい音を奏でている。
波の音は、子宮の中で胎児が聞いている音に似ているのだと、誰かが言っていた。
けれど今の彼女にとって、どれほど優しいさざ波も、ひたすら恐怖を誘うものでしかない。
目の前で、いきなり人間がふたりも消えてしまうなんて、すさまじい恐怖以外の何物でもなかった。
歯の根が合わなくなって、全身を襲う寒気に震えが止まらなくなる。
(け……警察……っ)
あまりの異常事態に、彼女が警察の存在を思い出したのは、すっかり手足が冷え切ってからだった。
ずぶ濡れになり、蒼白になって最寄りの派出所に駆けこんだ彼女は、よほどひどい様子だったのだろう。
海で遊んでいた後輩たちが、突然消えてしまった。もしかしたら溺れてしまったのかもしれない、と震えながら訴えると、警官たちはすぐに動き出してくれた。
年配の警官が出してくれた毛布にくるまりながら、彼女はずっと握り締めていたデジタルカメラの存在を思い出す。
いつの間にか、録画は停止されていた。
随分塩水を被ったはずだが、海の中へ落としたわけではない。小さな機械は、つい先ほど彼女が撮影した動画を、きちんと液晶画面に映し出してくれる。
『ユーナー! ユナもこっちに来て! めっちゃ気持ちいーよー!』
おぼろに揺らめく月の道の中、リオンと呼ばれていたきれいな少女が笑っている。
少しして、小柄な少女が画面の中に映り込む。
液晶画面はあまりに小さくて、ふたりの表情はよく見えないけれど、その仕草やわずかに聞こえてくる笑い声から、とても楽しんでいる様子が伝わってくる。
――こんなふうに、笑っていたのに。
瞬きもせずに画面に見入っていた彼女は、笑い合うふたりの姿がなんの前触れもなく消失する瞬間を、再び見た。
(何……これ……)
やはり、違う。
ふたりは、溺れたりなんかしていない。
文字通り『消失した』のだ。
まるで、神隠しのように。
――世界が、足元から崩れ落ちるような心地がした。
***
それからのことを、彼女はよく覚えていない。
自失している間に、デジタルカメラは証拠品として警察に持っていかれてしまった。
静かな海岸線は、しばらくの間ずっと捜索隊と野次馬で騒々しかったけれど、そんな喧噪もいつしか消える。
学校のほうが、騒ぎはずっとひどかった。
一年生の女子が二名、海で消息を絶ったのだ。
どこからともなく噂は流れ、目撃者として彼女も少しの間『時の人』になった。
周り中が自分の言葉を聞きたがる、という状況は、あの晩の恐怖が抜けきれていない彼女にとって過剰なストレスにほかならない。
さほど時間が経たないうちに心労で倒れ、彼女は自宅療養を余儀なくされた。
再び登校したときには、今度は周り中が腫物を触るような扱いになっていたけれど、以前よりはずっとマシだ。
少し前まで、『仲よく付き合う』ことに疲れを覚えていた友人たちが、笑っているのか怒っているのかわからない顔で「心配した」と言ってくれた。
はじめて彼女たちの前で泣きじゃくり、それが伝染したかのように、なぜだか周囲にいた生徒たちまで泣き出して――ようやく、現実に戻ってくることができたのだと思う。
もう、彼女自身に事件のことを聞いてくる者はいなかったけれど、耳に入ってくるものはある。
あの日、彼女の前で消えてしまったふたり――一年生の麻川凛音と、真柴由奈。
あちこちから聞こえてくる噂話の中に、真実がどれほど含まれているだろう。
中には、麻川凛音は某企業グループを牛耳る資産家の愛人の子だが、ほかに子がいないため後継者と目されていたようだ、だの、真柴由奈は幼い頃、あまりに知能が高かったために、政府のエリート育成を目的とする裏組織で育てられていたらしい、などといった、あまりに荒唐無稽なものもあった。
ネット上は、もっとひどいことになっている。
読んだ者の心を傷つけるような言葉ばかりが溢れていて、彼女はそこでふたりの情報を求めるのはやめた。
どうせ、警察以上に高い捜査能力を持つ組織など、この国にはない。
無価値で不快な言葉ばかりをネット上に吐き出す者たちに、最初は強い憤りを感じたけれど、それもすぐに馬鹿らしいと感じるようになった。
おそらく彼らは、匿名の世界で他人を傷つけるというカタチでしか、自己表現ができないのだ。
幼い頃から甘やかされて育った人間は、高い承認欲求を持ちながら、成長するにつれそれを満たされなくなる現実に、ひどい欲求不満を抱えるようになるという。
だからといって、ネットの世界で他人を馬鹿にする発言を繰り返すことで、歪んだ承認欲求を見たそうとするなんて、本当にくだらない。
いくら他人を馬鹿にしたところで、そんなことをするほうが馬鹿に見えるだけだ。
そんな連中と同じレベルになんて、絶対に堕ちたくない。
友達との口喧嘩で『バカって言うほうがバカなんですぅー!』という子どものほうが、よっぽど賢い。
定期的に警察に行って、何か進展はなかったかと尋ねる日々ばかりが過ぎていく。
担当者は、そんな彼女を憐れんでか、時折当たり障りのない情報を伝えてくれることがあった。
すでに公表されているふたりの家族構成や、ふたりをよく知る人々のささやかな証言。
第三者の目から見たあのふたりは、そんなふうに見えていたのか、と少なからず驚いたこともある。
しかし、由奈の知性の高さと幼馴染に対する異常な執着、凛音の並外れた運動能力と天真爛漫な人懐こさは、彼女自身がその目で確かめたことだ。
そして、あの日あの晩、あの瞬間のふたりが、この世界で生きることに絶望などしていなかったということも――
(……どこへ、行ったの)
忘れられない。
ほんのわずかな時間をともに過ごしただけの、ひとつ年下の少女たち。
親しかった、なんて冗談でも言えない。
何しろ、互いに自己紹介さえしていないのだ。
けれど、あんなふうに出会った。あんなふうに――別れてしまった。
忘れられるはずがない。
彼女が今まで生きてきた中で、一番きれいなものを見せられたのだ。
だから、覚えている。
何があっても、忘れたりしない。
ほかの誰の記憶が風化しても、自分だけはあのふたりの少女が、たしかにこの世界で生きていたことを覚えている。
(帰って、きてよ)
どうか、と願う。
あのふたりに、もう一度会いたい。
会って、礼を言いたいのだ。
あの日、あんなにきれいなものを見せてくれたこと。
伝えたい。
この世界で、生きていく勇気をくれたことへの、感謝を。
なのに、あのふたりはどこにもいない。
自分の手の届かないところへ、消えてしまった。
(……どこに、いるの)
わからない。
この世界から、麻川凛音と真柴由奈という名のふたりの少女は、消えてしまった。
***
『月の標に導かれし乙女たちよ。おまえたちの不要なものと引き換えに、力を与えよう。――戦う力と守る力、どちらを選ぶ?』
***
「ここの神、よりによってまさかのギリシャ神話系かよ……!」
「理不尽、傲慢、節操なしの考えなし……。おまえら今すぐ歯ぁ食いしばれ、と言いたいところだけど。ついでに、このコスプレくさい衣装にはもう笑うしかない感じだけど。……とりあえず、そこのやたらとボディラインを強調した鎧っぽいコスプレ衣装の、赤い髪に金の目をしたきれいなお嬢さん。あなたは、私の自爆系幼馴染の凛音でいいのかしら?」
うずくまり、両手で罪のない地面を殴りつけていた赤い髪の少女が、のろりと顔を上げた。
ふふ、と乾いた笑いを浮かべて彼女は問う。
「……そう言う白髪に緑の目をした、ずるずるの巫女さん風コスプレ衣装の可憐な超絶美少女さん。アナタは、わたしの地雷系幼馴染の由奈さんでよろしいか?」
「うん。とりあえず私は今、自分の脳が重度の中二病を発症したのかもしれない恐怖と戦っているので、少し黙って――し に た い」
「由奈の心が折れた!?」
ヤンデレ系幼馴染の由奈にヤバいレベルで執着されてるけど、そんな由奈を全力で信じ切っている凛音が主人公の、王道異世界トリップ物語――には巻きこまれなかったものの、人生観が変わったという意味では立派に巻きこまれた『彼女』のおはなし。