6話 なら、せめて夏の間だけでも
【6話 なら、せめて夏の間だけでも】
ここに来るまで乗ってきた自転車は駅前に預けたままにして、僕らは影をも溶かす午後の日差しの中を歩き出す。
踏切をまたぎ河川を越えて、先導する僕とコッペの後ろを日傘を差した水守さんがゆっくりとついてくる。
頭上では今朝、羽化したばかりのニイニイゼミが、鬨の声をあげていた。
目指す外国ハウスは緩やかな傾斜の小さな丘の上に建っていて、その麓には室町時代に作られたという貯水池がある。そこはかつて結婚を許されなかった恋人たちが来世で結ばれることを願って身を投げたという伝承の残る、いわくつきの場所だった。
僕もガキだった頃は池の周りで友達と肝試しをやって、よくよく先生に注意されてたぜ。
でも実のところ、このあたりは昔ながらの旧家が建ち並ぶ結構なお屋敷通りで、不動産屋からすれば大金を投じても手に入れたい絶好のロケーションなんだろう。
そんな地元トークを水守さんに聞かせながら池のほとりを進んでいると、手に手に笹の葉を握りしめ、嬌声をあげながら行く先の斜面を駆け下りてきた小学生の集団とすれ違った。
そうか、明日は七夕なんだ。
コッペは天の川に何を願うんだろう。……僕は、何を願えばいいんだろう?
僕らは木々に囲まれた、なだらかな坂道を登る。ほどなく、スローカーブするアスファルトの先に、日に焼けた緑屋根の建物が姿を現した。坂の頂上付近から伸びる横道は敷き詰められた黄色いレンガ道になっていて、それはオズの国への道しるべのように僕らを外国ハウスの入り口へと導いていた。
この景色、このにおい。僕は小学生の頃の記憶を思い出す。
どれだけ近所でも、用がなければ何年も足を運ばない場所はたくさんあるんだ。それは僕にとって、少しばかりショックな事実だった。家からさほども離れていない場所を、こんなに懐かしいと思うなんてさ。
ハロー、ハロー。
いいや、そうじゃないだろ。
こんにちは。久しぶりだね、外国ハウス。
「すっ……ごく素敵。眺めも良いし、ここに大型マンションは確かに無粋な気がするね」
日傘をたたみながら、水守さんが言った。
「だから残したいの。私たちならそれが出来るもん、ね?」
なあ、コッペ。ただの一般人の僕に意見を求めないでくれよ。
コッペの言葉に同意した水守さんは、そのまま躊躇なく黄色いレンガの小道を進み、門扉の横に吊り下げられたカウベルを鳴らした。
「ごめんください、どなたかおいでになりますか」
すごいな水守さん。はじめての家だってのに、まったく行動によどみがないぜ。
しばらくして、玄関口ではなく裏手からやってきたのは、ガーデニングエプロンを身につけた、見上げるほど背の高い男性だった。僕の両親よりは年下で、姉ちゃんよりは大分上。
「君らも、遊びに来たのかい」
男性は軍手を外した指先でクラシカルな丸眼鏡を軽く持ち上げると、他には何も聞かずに、ハウスと僕らの間を隔てる門を開けてくれる。
「さあ、どうぞ。言っておくが麦茶くらいしか出せないよ」
靴をはいたまま通されたのは、外国ハウスの一階突き当りにある板張り床の広い洋間だった。
おそらく、元々は留学生たちが共同で使っていたスペースなんだろう。僕らは運動場に引かれた白線トラックみたいな長円形のテーブルに並んで腰をおろす。 途端に、どっと汗が噴き出してきた。
「ここの管理をしている、千秋道明だ」
と、韻を踏んだ名前をラップのリリックよろしく舌も噛まずに名乗って見せた千秋氏は、しょっぱなの宣言通り僕らに冷たい麦茶をふるまってくれる。
「君たちと入れ違いになるけど、さっきまで近所の子供らが遊びに来ていてね」
こうもあっさりと中に入れるとは拍子抜けしたけれど、千秋さんによれば、留学生の受け入れを終えたこの春以降、たびたび小学生が中を覗きにやってくるらしく、僕らもその手合だと思われていたようだ。さすがに小学生のお遊びと一緒にされちゃあ立つ瀬がないぜ。
ほら、コッペさん。僕らの目的を言っておやりよ。
「夏の間このおうちを貸して頂けませんか、お願いしますっ。ぅあつっ」
つむじ全開でお辞儀をして、したたかテーブルに頭をぶつけたコッペの姿に、対面から眉を上げて僕の方を見る千秋さん。困ってる。そりゃそうだ。物事は順を追って説明する必要があることを、コッペは賢いがゆえに、たまに忘れてしまうんだ。
「ええとですね、僕らのクラブがこの夏休みに海外から留学生を受け入れることになっていて、ホームステイが難しくなったので寝泊まりの出来る家をさがしていたんです。それで、ここのことを思い出して」
「わかった、わかった。それで、子供たちだけで、ここに交渉に来たのかい」
千秋さんが苦笑交じりに僕らの顔を見渡す。
「保護者の同意書は私がもらってきています。期間は十月一杯まで、初期費用含めて、全て前金で契約させて頂きます」
「……無理だよ。ここの家賃設定を君たちは知らないだろう」
「お安くして頂けるなら、それにこしたことはありませんが、五百万円までなら即金でお支払いできます。足りませんか?」
「冗談?」
「いいえ」
水守さんが預金口座のコピーを机に置いた。それを手にした千秋さんはもう一度、僕らの顔を見渡した。明らかに困惑した表情を顔に浮かべて。
「君ら、何者だ」
こんなこと言われた時のケースは想定してないぞ。多分、ただの学生って言っても通じないんだろうな。
「このおうちが売りに出されちゃうって聞きました。だからせめて、夏の間だけでも借りれないかって思ったんです」
あ、それ言っちゃうんだ。
「まさかこの家の売却の話が、子供らの間で噂になってるのか?」
いえ、ちっとも。すみません。これ二ヶ月先の情報なんです。
ああ、ややこしくならなけりゃいいけど。
「……うん。まあ、そうだ。この家は手放すことに前から決めていたんだよ。妻の実家に引っ越すので、どのみち管理はできなくなるからね」
そう言って千秋さんは肩をすくめる。
「奥様のご実家は、そんなに遠いんですか? 物件管理の代行会社に任せる方法もあるかと思いますけど」
物知りな水守さんが提案を投げかける。
「無理だろうね。うちの奥さん、スペイン出身だから」
千秋さんは左右に頭を振った。
確かに、そりゃ管理どころの話じゃないな。
僕なんか、スペインのおおまかな位置すら怪しいけれど、地理に疎くたって遥か彼方のヨーロッパにあることだけはよくわかる。
かの地より留学生としてハウスにやってきた女子大生と恋仲になった寄宿舎オーナーの子息。
奥さんの実家を救うため、この人は国を跳ぼうとしてる。
僕は時間を跳び続けるコッペの顔を見る。コッペは目配せしながら軽く頷いた。あのね、奥さんの件、知ってたんなら、ちゃんと話しておいてくれよ。頼むぜ。
「年内中に全てを整理をしておきたいんだ。だから残念だけれど、君たちには……」
「でも、本当は売りたくないのに」
コッペがつぶやいた。
「そりゃそうさ。俺も妻も先代も、誰よりこの家を愛してるよ。それでもどうしようもないことはある」
「なら、せめて夏の間だけでも、この家をそのままの形で譲り受けてくれる人を探してみませんか。マンション業者ではなくて」
僕の言葉を受けた千秋さんは立ち上がり、壁面の棚上に並ぶ写真立ての前に移動する。そこには歴々の住人たちの笑顔が写っていた。
「先代は……うちの母親は留学生と何度も契約してきたが、まさかこの俺が中高生と取引きする羽目になるとはなぁ」
そして千秋さんは僕らに向き直った。
「本当に秋口までこの家を丸ごと借りるつもりなんだね?」
「もちろん!」
千秋さんが顎に手を添えて宙を睨んだ。そして僕ら三人の顔を順にみつめてから口を開いた。
「……敷金、礼金はロハで、月額家賃は六十万円。月内契約なら残りは日割りだ。これを前金で払えるかい」
「その条件で、結構です。これが親の同意書と不要かと思いますが保証書です。お確かめください。保険は指定のもので構いません」
水守さんが手際よく、書類を差し出す。頼もしいことこのうえないね。僕なんて六十万円なんてべらぼうな家賃がこの世に存在することに面食らってるってのにさ。
「あまりに我が家にとって都合が良すぎて、正直怖いくらいだ。神頼みした覚えはないんだが」
「産まれてくるお子さんが、いつか日本を訪れた時のためにも、このおうちは残しておくべきなんです」
コッペ、新情報しゃべりすぎ。
「君って俺の親戚よりも、よほど我が家の事情に詳しいみたいだね。いや、君らのことは詮索しない。ただ、機会を与えてくれて、感謝の言葉しかないよ」
千秋さんの脱力した笑顔を前に、コッペは満足気に頷くのだった。
未来は変わる。変えることが出来る。
「スペインへの移住は年明けですか?」
水守さんが尋ねた。
「ああ。奥さんとお腹の子は、先に里帰りしている。俺も出産には立ち会いたいからね」
「向こうで家業を継がれるんですね」
「オリーブ農家をしているんだ。日本へ輸出する手伝いをしようと思ってる。幸い今の仕事も場所を選ばないから独立しても続けるつもりだけど」
そういえば不動産が本業じゃないんだっけ。大人って大変だ。
「今は何をされてるんですか?」
「WEBコンサルって言って、インターネットをどうやってビジネスに活かすかを考える仕事だね」
ふうん?
「それって、メールアドレスのこととかにも詳しかったりするんですか」
「いや、どうだろう? 一通りのことはわかると思うけど」
「ねえ、水守さん。例の、出せますか」
「うんうん」
水守さんが頷いて手帳を取り出す。
「あの、千秋さん」
「何かな」
少しでも新情報が引き出せると良いのだけれど。
「よければ、確認してもらいたいアドレスがあるんです」
その言葉とともに、水守さんが手帳を開いた。
夏の日のなんともいえない空気が出せればいいなと思って書いてます。




