1話 でも、まあ。いいじゃん。信じるよ
これは、中学三年生の夏休み。僕とコッペの間に、起こらなかった物語。
【1話 でも、まあ。いいじゃん。信じるよ】
七月一日はとにかく肌寒かった。コッペに後で聞いたところによれば、温かい日もあるが極まれで、大体の七月一日は朝方冷え込むのだそうだ。
前夜をタオルケット一枚で過ごし、鼻水とともに起床した僕は、普段の三倍のティッシュをポケットに詰めて登校するという、悲しいくらい冴えない七月のスタートを切っていた。
三年D組では今日から始まる期末テストのために、朝のホームルーム前からペンを片手に教科書をめくる連中と、観念して友達と机を囲む連中に分かれていた。
僕がどちら側の人間かは、見てればわかるだろ。友達の笑いを取るためなら鼻にティッシュくらい、いくらでも詰めてやるさ。だから、一緒に諦めよう。今更、単語帳なんて取り出さないでさ。
なにせ、この時の僕は、この世界の裏側で起きている事情なんて何も知らずに、今日の前日が昨日であることになんの疑いを抱くこともなく、ただただ、なんとなく楽しく夏休みを待つだけの、地方の中学生に過ぎなかった。試験勉強なんてそこに意味を見いだせる奴が頑張ればいい。本気を出すより低燃費が今の時代には合ってるね、なんて勉強出来ない言い訳を考えることに知恵を費やしていた訳だ。
そして、僕の前の席に座るはずの優等生代表コッペ選手がいつまでたっても現れず、ホームルームのギリギリになって息せき切って駆け込んできた姿を見て、僕もみんなも、続いてやってきた先生ですらも驚いた。
コッペが遅刻をしそうになるなんて。
謹厳実直の四文字を初めて習った時、誰もが彼女の顔を思い浮かべたに違いない、あのコッペが!
調子でも悪いのか、風邪でも引いたなら貸せるティッシュは山ほどあるぜ。そう進言してやろうと、僕の前に腰を下ろしたコッペの肩をつつく。
そしたらコッペは振り返り、ふにゃっとした笑顔とともにこんなことを言ったのさ。
「久々に寝坊しちゃった。こんなことならユキちゃんに起こして貰えば良かったね」
何だそりゃ。僕をユキって呼ぶのは姉ちゃんだけだぜ。しかも、さらっと恥ずかしいことを言ってくれるじゃないか。
そしてコッペは余計な一言を残しつつ黒板へと向き直ったのだ。
「あ、今のは冗談だよ」
わかってるよ。
ホームルームの最中、僕はずっとコッペの背中を観察していた。
コッペのことを知らない人には何が不思議なのかイマイチわからないと思う。でも幼稚園からの腐れ縁だからこそ、コッペの昨日からの劇的な変化について僕は断言できる。生真面目で勉強が好きでホームルーム二十分前には席についてたコッペ。僕のことを奈々宮くんと呼ぶコッペ。後ろ髪をくくったことなんて無かったじゃないか。昨日までのコッペは一体どこへ行ったのさ。
なあ、コッペ。今は夏休み前だぜ。普通イメチェンってのは休み明けにするもんじゃないのか。そういうピントのずれ方は、お前らしいけどさ。
さて。午前の試験は予定通り惨敗した。予定通りだから何も問題はない。補習さえ回避できれば、何も問題はないのだ。
で、コッペ。
「今のところ満点とれてると思う」
そうかい。
「ね、今日の放課後、私と遊ぼうよ」
僕の悲惨な成績を知っていながらの、このセリフ。危うく給食を鼻から吹き出すところだったじゃないか。
「ユキちゃんて、夏休みになるといつもお金が足りないって言ってるでしょ。私が助けてあげるよ」
だから付き合って、だって。そういうことなら付き合うぜ。実のトコ、帰って勉強する訳でもないからな。放課後の金儲け。さあ、僕は一体何をさせられるんだろう。
……ああ、もう! 全てを話すと決めた以上、隠してもしょうがない。
この時、僕は、この少しだけネジのかっ飛んでしまったコッペのことを、ほんとにほんとに少しだけ、可愛いと思ってしまったんだ。
***★
このテスト期間中に制服のまま出歩くことを躊躇した僕からの提案で、お互いに一度私服に着替えてから現地合流とあいなった。
行く先はコッペの希望で、隣街にある複合モールだ。ここはかつての野球場跡地に作られているため、かなりの敷地面積に多くのテナントが並び、大抵の買い物はここで済んでしまう。都市部まで出るほどでもないけど、少し遊びたい学生の定番スポットだった。
女子と出かけることを恥ずかしいとは思わないけど……なにせコッペだ……知人に見られるのは絶対に避けたい。
なので僕は待ち合わせ場所にあるただいま上映中の映画ポスターに集中するフリをして、人通り激しいモール入り口に背を向けていた。
午後に入ってから、天気は今が初夏であることを急に思い出したらしく、亜熱帯モンスーン気候の高い湿度をそのままに、西日がジリジリと背中を焼いてくる。なんでモールの中で待ち合わせなかったかな、僕って野郎は。
「えい!」
急に押し当てられる両手のひら。汗で冷えかけた背中が両手の形に熱くなった。
「うわぅっ!?」
「やっぱり背中冷たいね。ごめんね、待たせちゃったんだね」
サンダルに色合わせをしたノースリーブなワンピ姿のコッペがいつの間にやら僕の背後に立っていた。
あのね、コッペさん。手前でLIMEか電話くらい寄越しなさいよ。心から驚いたでしょ。クソ、やっぱりちょっとだけ可愛いな。
僕は動揺を悟られないように細心の細心の、もひとつ細心の注意を持って話かける。
「行きらいろころはあるろ?」
ちくしょう。噛んだ。
「とりあえず、お茶しよ。話したいこと一杯あるんだ」
モール内の二階にある雑貨店併設のカフェまでやってきた僕ら。小遣い不足の中学生にとっては、気絶したくなるほど高いメニューだ。僕は別にファストフードでも構わないんだぜ。女子って奴は、これだから。
「今日のお金は出すから、任せて。ユキちゃんにはお世話になってるから」
切ないことを言ってくれる。
「じゃあ、一番高いの頼むからな、いいんだな」
「どうぞどうぞ」
僕らは紅茶とケーキセット(千百九十円)を注文し、ここは僕のおごりということで決着させた。
「そういえば、昼間お金がどうとか言ってたよね。あれ、どういう意味だったの」
「それはね。今から説明する話を証明するために必要なこと」
「お前が急に髪をくくったたことと関係あるんだな」
「うん」
「よし、聞くよ。ケーキ食べながらでもいい?」
「いいよ。それくらい気楽でいてくれた方が嬉しいかも」
そう言ってコッペは、はにかむのだった。
そして僕は、口に運ぶケーキをポロポロこぼすくらいに衝撃の発言を聞かされる。もちろん、ほんとにこぼしちゃいないけれど、まあ聞いてご覧よ、ぶっ飛ぶぜ。
「私は今日から九月までの二ヶ月と少しの間を以前から延々と繰り返し続けています。ぐるぐる」
「ちょっと、わかんないかな」
「ループしてるの、今年の夏を。ずっと」
「中学三年の夏を? ずうっと?」
「そうです」
「なんで敬語になってんのさ」
「なんでだろ」
コッペだからだろ。つまり僕にわかるはずもないじゃないか。
「すごいじゃん。夏休みし放題」
「うん、うん。そこは良かったところ」
「でもさ、雪見れないね」
「うん。そこは寂しいところ。だから、ユキちゃん見てるしかないかなっ」
もしかして、僕の顔見てたら寒くなるって言いたいのかな。
「繰り返すって何度くらいさ」
「覚えてないの。記憶以外は持って帰れないから、何度も繰り返してるとわからなくなっちゃう」
「じゃあ先週末、給食何食べたか覚えてる?」
僕も覚えてないけど、一応ね。そしたらコッペは、
「私ね、六月より前のことはあまり覚えてないんだ。中学に入学した時の記憶も、もうほとんどなくて。だからユキちゃんにしか相談できない。いつもごめんね」
なんてこった。こいつは想像よりはるかに深刻な内容だぞ。でもさ、だからこそ、さ。
「でも、まあ。いいじゃん。信じるよ」
「……みゃっ。これだけで信じちゃう、の?」
生まれたての赤ちゃん猫みたいな鳴き声で驚くコッペ。
「面白いよ。なによりお前がそんなこと言い出すことが面白い。それに、コッペのことだから後で証明してくれるんだろう。納得したかないけど、僕よりコッペのいうことが大体正しいんだよな。だから信用してる」
コッペは目をまんまるにして、お菓子を待つ雛鳥みたいに口を開けて、ちょっとだけ泣きそうな顔して。
「今回のユキちゃはすごいね。そんなこと初めて言ってもらったよ。嬉しいな」
「今回のってことは、これまでの僕は一体何をしてたんだ」
通常パターンの僕はコッペの頭を本気で心配するため、ループの証明まで持ち込むのがいつも大変らしい。まあ、当然だよな。同情するよ、奈々宮Bに奈々宮C。
「この夏が楽しみだねっ。今回のユキちゃんは何が違ったのかなぁ?」
それはね、コッペ。数ある僕の中で、今回たまたま不良品に当たってしまったってことだぜ。
でなければ、どうして僕がコッペを意識してドギマギしなけりゃならないんだ。
夏の間にこの危機的エラーを修整しなくちゃいけないな。
僕は三段重ねミルフィーユをナイフで上手く切れずに悪戦苦闘するコッペを観察しつつ、そんなことを考えていた。
昔懐かしいジュブナイルの香りが出せればいいなと思ってます。
ゆったり進行でおつきあい下さい。
書きため分の7話は、一日1~2話ペースでアップします。