For Tomorrow
――焼け焦げた大地に僅かに光る煤けたスズの塊。
傍らには焼け残った少女の人形のリボンが落ちていた。
人々は憐れんでリボンをスズの塊に結びつける。
おもちゃの兵隊は英雄となった。
美しいハート形のスズの塊となって。
昂汰たちがロクサーヌのメンバーと夢の様なステージを行った日から休みを挟んだ明くる日、翔子は柏葉と共に校長室へ呼ばれていた。
ガラスケースに並んだ沢山のトロフィーがこの学校の伝統を物語る。
校長の柿崎は窓の前に立ち、後ろで手を組んで静かに校庭を眺めている。
そんな校長の後ろ姿を見つめる形で、翔子と柏葉は机越しに並んで立っていた。
ただまっすぐと前を見る翔子と面子を潰されて苛立ちを隠せない表情の柏葉。
暫くの沈黙の後、校長は窓の外を向いたままゆっくりと話を始める。
「さて、今回の騒動についてだが・・・。」
「はい、校長! 先日のことがあったにもかかわらず、高岡先生は英語部に軽音楽の演奏をさせ、挙句に生徒から私への暴力行為を黙認しました!」
待ってましたとばかりに翔子の責任を断罪する柏葉。翔子は表情一つ変えずに口を開く。
「生徒たちは私の指示に従っただけです。全ての責任は私にあります。どんな処分でもお申しつけ下さい。」
「校長、この女の言葉を信じてはいけません! 本人への処分ももちろんですが、指示を無視した英語部は即刻廃部に! 関わった生徒たちにも厳正な処分をするべきです!」
感情丸出しの形相で、柏葉は校長に訴えかける。
「そうだな・・・。生徒でも教師でも、悪さをすれば罰を受けなければならない。」
「おっしゃる通りです校長! さあ、お命じ下さい!」
柏葉は期待に胸を膨らませてほくそ笑む。校長は振返ってその険しい顔で二人を見た。
「柏葉君。罰を受けなければならないのは君だよ。」
「へ・・・?」
校長の予想外の発言に柏葉は面食らった。翔子もその言葉の意味を理解できない。
「ははは・・。ご冗談を! 一体私が何をしたというんです?」
「生徒から匿名で私宛に封書が届いてね・・・。柏葉先生が女子生徒複数と不適切な交際をしているというものだった。」
「ま、まさか!」
動揺を隠せない柏葉。額からは冷や汗が流れる。
「身に覚えがありません! 誰かが私を陥れようとしてるんです! 大体何の証拠があってそんなこと!?」
「私もそう思いたかったんだがね・・・。」
校長は溜息を吐いて机の引き出しを開けると、三つ折りにされた手紙と数枚の写真を机の上に放り投げた。
「こっ、これは!?」
それは生徒と思しき少女が柏葉と楽しそうにスマホで自分撮りをしている写真であった。喫茶店や遊園地、車の中に極めつけはホテルで、複数の女生徒と撮られている。
柏葉の顔は青ざめ、言葉を詰まらせた。
「全く、恐ろしい時代になったものだ。どこで寝首を掻かれるか分かったもんじゃないね。柏葉君。」
「し・・しかし校長! そんなことが明るみになれば大問題になります! 校長も私の父が誰だかご存知でしょう?」
苦し紛れの弁解をする柏葉だが、確かにこのことが明るみになれば、柏葉だけの問題では収まらない。学校側の管理責任も問われるだろう。
「柏葉教育長か・・・。君の父上とは昔ながらの知合いでね。このことを話したら頭を抱えていたよ。」
「え・・? そんな!?」
「安心したまえ、こんな醜態を世間に晒すわけにはいかん。年度途中だが、間もなく人事異動が発令される。君が同じ過ちを繰り返さないだろう最適な職場だ。」
「異動ってどこに!?」
「君には千原工業高校へ行ってもらう。」
「ち、千原工業!?」
県立千原工業高校。言わずと知れた男子校である。
「父上もこれでご安心するだろう。君にそっちの趣味でもなければの話だがね。」
「・・・。」
シュンとして項垂れた柏葉は、無言のまま一人校長室を後にする。
愕然として立ちつくす翔子。校長は一息ついて声を掛ける。
「しかし君にも困ったものだ。すっかり大人になったと思ってはいたが、中身はあの頃のままみたいだね。」
「はい?」
いつもの厳しい表情の校長ではない。それは自分の教え子を見るかのような穏やかな表情であった。
「あの頃私は教頭をやっていたが、いつもギターを背負って問題ばかり起こしていた女子生徒を覚えているよ。」
「私のこと、覚えていらしたんですか!?」
翔子は高校時代に現校長の柿崎が教頭だったことを知っていた。だが一介の女子高生であった自分のことを校長が覚えているはずがないと思っていたのだ。
「私も教育者の端くれだ。関わった生徒のことくらい覚えている。特に君は目立っていたしね。」
「・・・恐れ入ります。」
「しかしそんな君だからこそ、彼らの為にあそこまで頑張れるのだろう。君を見ていると、本来教師とはどうあるべきかを考えさせられる・・・。」
「はい・・・。あの子たちは多分私なんです。不器用で孤独で尖がっていて・・・。」
「本来は英語部と君も処分すべきなのだが、困ったことにマスコミからの取材も来ている。君たちを処分するのはバツが悪くなってしまった。今回のことは一旦不問にしよう。」
校長は振返り再び窓の方を向いて、恥ずかしそうに呟く。
「それから・・・レ・・レッド・ツェッペリンは・・・やらんのかね?」
「こ、校長?」
翔子は校長の発言に一瞬驚くが、その意味を汲み取り得意気に微笑んだ。
「はい。次回は『移民の歌』でも『胸いっぱいの愛を』でも、お好きな曲をやって差し上げますわ。」
「それは楽しみだ・・・。」
校長の後姿を見つめる翔子。人前で決して笑わない厳格な校長が、優しく微笑んでいるようであった。
★
ライブから数日、誠司は都内のとある高級ホテルの一室にいた。
テレビでしか見たことがないような無駄に広いスィートルームからは、絵で描いたかのような煌びやかな夜景が一望できた。
その部屋ではシモンがソファーに腰かけてくつろぎ、アイリーンはベッドに寝転がりはしゃいでいる。
誠司は若干居心地の悪さを隠せなかったが、椅子に座り楽しそうに二人と語らっていた。
『お前ら明日日本を発つんだろ?』
『ああ、そうだ。本当はもっと観光とかして日本の文化に触れたかったんだがな。』
『本当つまんない! もっと誠司とセッションしたかったのに!』
ロクサーヌは現在ワールドツアーの真っ最中である。日本に滞在できる期間も僅かであった。
シモンは少し疲れている様子で、アイリーンは相変わらずブーたれている。
『そうそう、今度はイギリスでセッションしましょうよ! あのギターの子、コウとか言ったっけ? あの子ともまたやりたいわ!』
『そうだな、あの少年はいいギタリストになる。キーボードの子も中々良かったけどな。』
『おいおい、普通の高校生は簡単にイギリスなんて行けねーよ! お前らみたいなロックスター様じゃないんだからな!』
『あーあ、一層私がロクサーヌ辞めて日本の高校生になろうかしら? あんたたちのバンド、ドラムいないわよね?』
『・・・お前が言うと冗談に聴こえないんだよな。』
アイリーンの本気だか冗談だか分からない態度に誠司とシモンはたじろぐ。
夜も大夫更けてきた。誠司は終電の時間を確認して、シモンとアイリーンに別れを告げようとする。
『お前らと久しぶりにセッションできて楽しかったぜ! ・・・来てくれてありがとな! またいつかって・・・有名になり過ぎてもう会えないかもしれないかな?』
少し寂しそうに冗談めかして椅子から立ち上がろうとする誠司。アイリーンは何を思ったかベッドから急に立ち上がり、誠司の顔を抱きしめた。
『な・・なんだよいきなり!? ちょ・・・おっぱい当たってるって! 離せってば!』
『ダメよ・・・。しばらくこうさせなさい!』
アイリーンは自分の胸の中でもがく誠司を離さない様、力強く抱きしめる。
動揺しながらも、誠司はアイリーンの温もりと懐かしい匂いにブライトンでの日々を思い出していた。
シモンは静かに席をはずして別の部屋へ向かう。
『・・・あんたはファッキン生意気だけど、私の弟みたいなもんなんだからね。またセッションしに地球の裏側にだって追いかけてってやるんだから!』
『ああ・・・ありがとな。』
『だから冗談でも、もう会えないなんて言うな・・・バカ。』
目を閉じて誠司の頭に頬を寄せるアイリーン。人形の様に美しく無垢な瞳には涙が滲んでいた。
誠司にとってアイリーンはイギリスに渡った頃からの幼馴染である。歳が一つ上のアイリーンは、彼女の言う通り誠司にとって姉のような存在であった。
彼らは共に遊んだり悪さをしたり、時には喧嘩もして、笑顔も涙も分かち合った。
思えば誠司がイギリスから日本に帰ると決まった日、普段は気丈なアイリーンが人目も憚らずに涙を流していた。
誠司はアイリーンの腕に包まれながら、異国での幼き日々の思い出に浸る。
しばらくすると二人は体を離し、何だか可笑しくて顔を見合わせ、笑いあった。
戻ってきたシモンはそんな二人を見て、よく分からなそうに肩を竦めて両腕を上げ、掌を返した。
別れ際、誠司は思い出したかのようにシモンに尋ねる。
『そういえばあのベース、やっぱり俺が持ってていいのか?』
『あれはロクサーヌがお前に渡した物だ。お前以外誰にも持つ権利なんてないさ。』
『そうか・・・。じゃあ、またやろうな! 今度は他メンバーにも会わせてくれよな!』
シモンとアイリーンは、部屋から出て行く誠司の後姿を並んで見つめる。
誠司がいなくなったのを確認すると、シモンはアイリーンに視線を送った。
『いいのかアイリーン? お前、本当は誠司のこと・・・。』
『もういいのよ。あいつの目にはまだロクサーヌのことしか見えてないもん。どんなに頑張っても私はあいつの姉さんよ・・・。』
下を向いて儚げに笑うアイリーン。その小さな肩にシモンは優しく手を置いた。
『だけど今のお前・・・、いい女だったぜ。』
『何言ってんの!? 元々私はいい女よ! 世界一のドラマーは、世界一のいい女なんだから!』
アイリーンはシモンの手を払って強がって見せる。そして顔を上げた彼女はシモンに向かって呟いた。
『でも・・、やっぱりあんたの妹には少し敵わないかな・・・。』
誠司より二つ年上のシモンには誠司と同い年の妹がいた。生まれつき体が弱く、あまり外に出ることはできなかったが、ロックをこよなく愛し、天真爛漫で人懐っこく、誰からも好かれる少女であった。
名前はロクサーヌ・グレゴリー。イギリスに渡ったばかりの孤独な誠司に最初に手を差し伸べた少女である。
病気がちのロクサーヌは長く生きることはできなかったが、皆に愛され、誠司も彼女のことを愛した。誠司にとっては、初恋の相手などと簡単な言葉では片づけられない存在であるのだ。
短い生涯の中で、彼女はまだ幼い誠司に沢山のものを残した。フランス移民であった彼女の少し癖のある英語に彼女の愛するオールドロックやベースの弾き方、そしてどんなに絶望的な状況でも明るく前向きに生きる心を。
世界的ロックバンド「ロクサーヌ」の名前の由来について知る者は少ない。
シモンの妹ロクサーヌには二つの夢があった。一つはロックミュージシャンになること、それからもう一つは誠司の生まれた国、日本に行くことであった。
兄のシモンが結成したロックバンド「ロクサーヌ」は、ロックを愛した少女が思い描いた夢のバンドなのである。
そして死の間際、彼女は自分の使っていたベースを誠司に渡す。いつか日本に帰るだろう誠司にもう一つの夢を託したのだ。
「ロクサーヌ・・・、お前にもまたいつか会えるかな?」
駅に向かって走る誠司は、夜空を見上げてフッと笑い、目を細めた。
――故郷から遠く離れた異国の町。
少年を知る者などどこにもいなかった。
鼻につく潮の臭いとただ砂浜に寄せては返す波の音。
いつしか少年の周りには、賑やかな仲間たちがいた。
幾つもの出会いと別れが繰り返され、
それでも少年はその先にあるものを信じた。
★
沈みゆく太陽が幻想的に照らす夕暮れの屋上。以前昂汰、誠司、奏の三人が文化祭に向けて決意を固めた場所である。
相対するは、長身で切れ長の瞳、鼻筋が通ったまるで絵に描いた様ないい男。その少し長い髪を夕日が鮮やかに染めている。
放課後の屋上に奏を呼び出したのは、軽音部の川村であった。奏は訳も分からず、緊張した面持ちで相手の顔を見つめた。
「急に呼び出して悪かったな・・・。」
「いいえ、文化祭の時はありがとうございました。今日は一体どうされたんです?」
「ああ、お前にどうしても言っておきたいことがあってな・・。」
「・・・?」
ばつが悪そうに言葉を濁す川村。奏は不思議に思い、首を傾げた。
「あの時は言えなかったが、この前のライブ・・・、お前のキーボード・・・すげー良かったぜ。」
「え・・・!? あ、はい! あ・・ありがとうございます。」
いきなりの讃辞に戸惑う奏。川村は恥ずかしながらも奏の瞳を見つめる。
「俺はロックのことなんて何も理解していないミーハーな女が嫌いだ。正直どんなにいい女でも付き合うのはごめんだと思ってる。」
「へ・・・? は、はい?」
「凄い演奏をする奴は尊敬に値する。男でも女でもな・・・。」
「そ・・そうですね。」
奏は川村の言葉の意図を理解できない。ただ愛想笑いをしながら相手の言葉に頷くことしかできなかった。
「あれは夏休み前だったかな。ムシャクシャしてる時にたまたま通りかかったんだ。モーツァルトだかブラームスだか俺にはよく分からなかったが・・・ピアノの音が聴こえてきた。」
「・・・え!?」
「あの視聴覚室から聴こえてくるピアノの音、・・・好きだったんだ。」
昂汰たちと出会う前、ピアノを弾きたい欲求を押さえきれず、奏は部活のない日に部室で一人ピアノを演奏していた。
そんな折、少し開いた扉から漏れるピアノの音色を川村は耳にする。中を覗くと、そこには優しいそよ風が吹き込む部屋で、楽しげにピアノを弾く少女の姿があった。
川村は部屋の前に座り込んで、その美しいメロディーに聴き入っていた。
「嫌なことがあったら、お前のピアノを聴きに行ってた。あんまり楽しそうに弾くもんだから、ムカついてんのが馬鹿らしくなった。」
「えーと・・・、聴かれちゃってたんですね・・あははは。」
「だからお前があいつらのバンドに入って、ロックをやってるって聞いた時は驚いた・・・というか羨ましかった。」
「・・・?」
自分のピアノを褒められてもちろん嬉しくもあったが、奏はどんな言葉を返せば良いのか分からない。
「前にお前を軽音部に誘ったことがあったろ? あれは嘘じゃない。俺はあの音が欲しかったんだ・・・。」
「あはは・・大袈裟ですよ・・・。」
「柏葉の指示とはいえ、俺たちはそんなお前の大切な居場所を奪おうとした・・・。本当にすまなかった!」
深々と首を垂れる川村。奏は慌てて両手を振った。
「や、やめて下さい! もういいんですよ!」
顔を上げた川村は、真剣な眼差しで奏を見つめる。奏も川村の顔を見上げて、只ならぬ様子に息を呑んだ。
「良くはない・・・。色々あったがやっと分かったんだ! 俺はお前の奏でる音が・・いや、お前が好きなんだと思う!!」
「・・・!?」
川村の突然の告白に目を見開いて言葉を失う奏。二人はそのまま数十秒間見つめ合った。
「返事・・・聞かせてくれないか?」
徐に川村が沈黙を破る。奏は焦りながらも拳を胸に当て、俯きながらではあるが口を開く。
「・・・ありがとうございます。先輩の言葉、凄く嬉しいです。」
「そ、そうか。」
照れ臭そうに答える川村。奏は顔を上げて申し訳なさそうに微笑む。
「でもごめんなさい・・・。その気持ちにお応えすることはできません。」
「・・好きな奴がいるのか?」
「今はまだわかりません・・・。私はただ、口が悪くてガサツでデリカシーのない誰よりも明るくて前向きな男の子と、シャイで冴えなくて、女の子が泣いて飛出しても追いかける勇気もない、だけどひたすら優しくて仲間思いな男の子と一緒に居たいだけなんです。」
その言葉を聞いて、川村は溜息を吐く。ただし、普段の仏頂面が若干和らいだ様であった。
「まあ、そう言われると思ったぜ。悪かったな。」
「いいえ、私こそ申し訳ありません・・・。」
「できればまた、お前のピアノが聴きたい。」
「そういうことであれば喜んで。また聴きに来てくださいね!」
奏はニコッと笑って川村に別れを告げる。
屋上から降りていく奏が見えなくなると、川村は振返ってオレンジ色に染まった空を見上げた。
「学校一のイケメンもこれじゃあ形無しだな。」
屋上の階段室の陰から軽音部部長の児島が出て来る。盗み聴きしていた児島を川村がハッとして睨んだ。
児島は川村のいる所まで行き、手摺にもたれ掛かった。
「ちっ! 聴いてやがったのか!?」
「そう怒るなって、慰めてやろうってんだからさ。それにしても以外だな。お前はてっきり美人系が好みだと思ってたんだがな。」
「別に外見は関係ねーよ! ただ俺はあいつが弾くピアノが好きなだけだ・・・。」
その言葉を聞いて、笑いを堪える児島。川村の顔に青筋が浮き出す。
「てめぇー、何が可笑しい!?」
「はははは・・・。悪い悪い。」
児島は笑うのをやめると、真剣な面持ちで屋上の眼下に広がる街の景色を見渡し、川村に語り掛ける。
「柏葉、いなくなるんだってな。まさかお前があいつらの為にあそこまでするなんて思わなかったぜ。一体校長に何を送りつけたんだ?」
「知り合いの女子にちょっといいものを貰ってな。」
「あいつらの為か好きな女の為か・・・どちらにしても、何だかあいつらを見てると、すげー羨ましく思えてくるよな・・・。」
「そうだな。」
「俺もあいつらみたいに一緒に泣いたり笑ったりできる・・・そんなバンドがやりたかった。」
「ああ、できると思うぜ。」
そんな二人のやり取りを知るわけもなく、奏は屋上から階段を駆け下りて視聴覚室へ向かう。
学校の外れ、第二校舎四階の一室。彼女の居場所は今でもそこにあった。
「すっかり遅れちゃいました。二人とも、もう来てますかね?」
奏は髪を靡かせながら颯爽と風を切った。今ある幸せを噛みしめて。
――大切なものを失った少女。
檀上で孤独にピアノを弾き続けていた。
どこにも行けなかった少女に一人の少年は呟く。
ただ己の弾きたいものを弾けば良いのだと。
希望と不安を胸に、少女は旅立った。
静かな壇上から賑やかなステージへと。
★
ステージから見た沢山の人々。鳴りやまない歓声。汗だくの肌に伝わる熱気。
耳にジンジンと響く轟音。そして皆の溢れんばかりの笑顔と歓びの涙。
――僕は確かにそこにいた。
カーテンの閉まった薄暗い部屋に光が差し込むようにアンセムが鳴る。
聴き慣れた目覚ましの音楽が昂汰を淡い夢の中から現実へと引き戻した。
昂汰は起き上がると、あくびをしながら両手を上にあげて体を伸ばす。
目を擦りながら自分の部屋を見渡すと、小さな頃から憧れていたロックスターたちが今日も昂汰を見つめている。
毎日バッテン印を書き込んでいるカレンダーは12月になろうといた。
「早いもんだね。あれからもうこんなに経つのか・・・。」
昂汰は顔を洗い制服に着替えると、朝食を取る為にダイニングへ向かう。
リズムよく鳴る包丁の音とお湯に溶かれた味噌の匂い。ダイニングでは母親がキッチンに立ち、朝食の準備をしていた。
「あら、昂汰おはよう。今できるから座って待ってなさい。」
「うん、おはよう! 母さん。」
母親は昂汰が入って来たことに気付いて声を掛けた。昂汰も快活に挨拶を返す。
椅子に座って朝食を食べ始めると、ダイニングの入り口から気怠そうな声が聴こえてくる。
「・・・お母さんおはよう・・・ふぁぁぁああ・・・。」
「あんた、部活が休みだからっていつまで寝てるのよ。片付かないから、お兄ちゃんと一緒に早く食べちゃいなさい!」
爽やかなショートカットに寝ぼけ眼なパジャマの少女。入って来たのは中学生になる妹の沙奈であった。
沙奈は眠い目を擦りながら食卓に付いた。
「沙奈、おはよう!」
「・・・ん・・あ、おはよ・・・。」
親しげに挨拶をする昂汰とは反対に、沙奈は不機嫌そうに答えた。
母親はやれやれといった様子で、昂汰もさして気にも留めない。
「母さん、今日はライブだから遅くなるね!」
「またバンド? 別にいいけど、あんまり遅くなるんじゃないわよ。」
「うん、なるべくね! それじゃ、ごちそうさま!」
ご飯をかき込み、意気揚々とダイニングを後にする昂汰。
嫌に明るい昂汰に腑に落ちない様子の沙奈だが、母親は嬉しそうであった。
「・・・なんか最近お兄ちゃん、妙に明るくて気持ち悪いんだけど。」
「あんなに溌剌としたあの子を見るのは何年ぶりかしら・・・。あんたと違って、引き籠って碌に友達もいなかったあの子がバンド活動とはね・・・。」
母親にとって昂汰の変化は感慨深いものであった。脳裏に初めてギターを買って貰い、はしゃぎ回っていた幼い頃の昂汰の姿が浮かんだ。
「何がロックバンドよ・・・、浮かれちゃって馬鹿みたい。」
呆れ顔で沙奈はつぶやく。母親は悪態をつく沙奈を笑いながら窘める。
「あんたも昔はお兄ちゃんにギターを弾いて貰うって、お兄ちゃんお兄ちゃん言いながら昂汰を追いかけ回してたじゃない?」
「小さな頃の話でしょ! もうやめてよ!」
母親の昔話に沙奈は恥ずかしそうに声を荒げた。
引込み思案で友達の少ない昂汰と違って、沙奈は明るく社交的で皆からの人気者であった。中学ではテニス部のエースとして活躍している。
以外にも、小さな頃の沙奈はお兄ちゃん子であり、器用にギターを弾きこなす昂汰に憧れを抱いていた。
しかしいつの頃からか、内向的で友達の少ない昂汰を見下すようになり、兄妹関係も疎遠となっていったのである。
「それじゃ、行ってくるね!」
「行ってらっしゃい! 気を付けるのよ!」
「・・・。」
ダイニングで朝食をとる母親と沙奈に笑顔で声を掛ける昂汰。嬉しそうに昂汰を送り出す母親と再び調子を崩される沙奈。
中々食事の進まない沙奈を母親が急き立てる。
「あんたも早く行かないと遅刻するわよ!」
「はぁー、本当に馬鹿みたいに楽しそう・・・。」
沙奈は溜息を吐き、揚々と出かける昂汰の後ろ姿を少し嬉しそうに見つめた。
外に出た昂汰は、雲一つない冬晴れの空を見上げて深呼吸する。
「今日は一段と空が高い気がするね。」
歩み出すとした昂汰は、何かを蹴飛ばしたことに気付き、その石ころの様な奇妙な塊を拾い上げた。
「何だろこれ? ハートの形の石みたいなのに煤けた布が巻いてあるみたいだけど・・・、まあいいか。」
その塊をズボンのポケットに入れると、昂汰は顔を上げて力いっぱい駆け出して行く。
――誰にも相手にされなかったひとりぼっちの少年。
信じあえる仲間に出会えることを夢見ていた。
耳障りだが心地よいギターの音色と少ししゃがれた甲高い声、それに鍵盤から流れる鮮やかなメロディー。
まだ見ぬ世界ではきっと何かが待っている。
少年はもう明日へと走り出していた。
そう、愛する仲間と共に・・・。
★
かつて昂汰と誠司が初ライブを行った場所。ライブハウスシャラララリー。
三人はあるライブの為、このレトロなライブハウスに集まっていた。
部室を失くした彼らは、練習場所のスタジオをライブハウスシャラララリーで貸して貰っていたのだが、勿論それはただではない。誠司はマスターと借りたスタジオ代をライブの出演料で返す約束をしたのだ。
とは言っても、出演したバンドから金を取るライブハウスも多い中で、この計らいは良心的であった。マスターの人柄が垣間見える。
そんなことも露知らず、リハーサルルームで誠司は燥ぎながら本番を待ちかねていた。
「お前ら校長のインタビュー聴いたか!?」
「あははは・・・、なんか都合のいいところだけ持ってかれちゃったよね。」
「まあ、結果オーライな訳ですが、なんか釈然としませんね。」
ロクサーヌのメンバーとの共演はやはりニュースになっていた。SNSなどから写真が上がり、巷ではそれなりに騒がれていたのだ。
“本校の生徒と世界的ロックバンドのロクサーヌとの共演は、本校が推し進めてきた国際交流の成果であり、今後も継続して行っていきたい。”
「あの野郎、本当にファッキン狸おやじだな!」
「うん、でも今回はロクサーヌのアイリーンとシモンに助けられたよね。」
「あの後はクラスの皆から質問責めで、大変でした。」
文化祭ライブの後、昂汰たちは校内で一躍時の人となる。
誠司の周りには以前にも増して人が集まるようになり、引込み思案であった昂汰にも盛んに声が掛かるようになった。最も、あまりクラスメイトと接し慣れていない昂汰には、どうにも複雑な気持ちのようだが。
「そういえばコウ、こないだクラスの女子に囲まれて、色々聞かれてたよな?」
「うん、洋楽ロックは何から聴いたらいいのかってね。あんまり上手く話せなかったけど、皆僕の話を真面目に聞いてくれて嬉しかったよ!」
「女ってのはギャップに弱いって言うもんな。こりゃ、奏もうかうかしてらんないぜ!」
「なっ、何言ってるんですか!? 私は別にそんなこと・・・大体、皆に音楽の話をしてただけじゃないですか!」
昂汰のことを茶化して、奏をからかいに掛かる誠司。奏は少しドキッとしたが、気にしていないように振舞った。
「俺もクラスの男子から、アイリーンのことを詳しく教えろって大変だったぜ!」
「彼女口は悪いけど、やっぱりかわいいですもんね。」
「それにしてもコウ、あいつ小さいくせに胸は結構あんだよな。後ろから抱き付かれた時はどうだった?」
「そうだね・・。背中の肩甲骨あたりに何かこう凄く柔らかい感触が・・・って、何てこと言わせんの! 誠司君!」
「へぇー、昂汰君そんなこと思ってたんですか・・・。」
誠司の戯れのに昂汰はうっかり乗っかってしまう。奏が白い目で昂汰を見つめる。
「いやっ、違うんだ! 奏ちゃん! 僕はただ率直な感想を・・・じゃなくて、凄くいい匂いがしたとか、感触が堪らないとか思ってないし・・・えーと、女の子は胸じゃないから!」
「昂汰君・・・色んな意味で最低です・・・。」
焦って墓穴を掘る昂汰に呆れる奏。それを見て誠司はお腹を抱えた。
ふざけてばかりいる誠司を見かねて、部屋のドアが開き、いかつい顔のマスターから催促が入る
「そろそろ本番だぞ? 準備は大丈夫なんだろうな?」
「任せとけって! 今夜もとびっきりのギグを見せてやるぜ!」
「フン、だといいんだがな・・・。」
いつもと変わらず自信満々の誠司にマスターは微笑し、再び客席へと向かう。
ステージの前に立ったマスターは、いつになく込み合った客席を見渡し、ご満悦である。ふと隅の方に座る一人の客に目が留まり、マスターは歩み寄った。
Tシャツにレザージャケット、スキニージーンズをロールアップしてドクターマーチンのブーツというロックないでたちに身を包んだ女性。学校では誰も想像しないだろう翔子の姿であった。
「マスター、凄い客入りですね。」
「おかげ様でな。まあ、翔子ちゃんの学校の生徒が大半だけどな。」
「私も昔はあそこに立っていたんですね・・・。」
翔子は昂汰たちの立つだろうステージを見つめて目を細める。それはかつて翔子が学生時代に何度もライブを行った場所であった。
ステージ上で飛び跳ねていた翔子の姿を思い出し、マスターはクスッと笑う。
「そういや一緒にやってたあいつは今どうしてんだ? いつも翔子ちゃんの尻ばかり追っかけてたあいつだよ。確か・・・。」
「一体どこで何してるんでしょうね・・・。世界で通用するミュージシャンになるって言って、外国に行ったきりです。」
「どうにも、あの眼鏡のボーズを見てると、あいつのことを思い出すんだよな。」
「私もです。」
昔のバンドメンバーに思いを馳せる翔子。二人が話し込んでいる間にいよいよ本番の時間となった。
マスターは慌てて三人を呼びに行く。
「お前ら! 時間だぞ! いつまでダラダラやってんだ!」
「今行くって! さあ、今夜もいっちょ派手にやってやっか! コウ、奏、行くぞ!」
「調子に乗ってとちんないで下さいよ! 昂汰君行きましょう!」
肩を回してやる気満々の誠司に少し呆れ顔の奏。二人は騒がしい客席へと続く扉の前で昂汰を待つ。
「うん! 今行くよ! ・・・あれ?」
昂汰はズボンのポケットに何かが入っているのを思い出した。ポケットの中をガサゴソと家の庭先で拾った奇妙な塊を取り出す。
不思議そうにその塊を見つめるが、二人の呼ぶ声に応えて、それを鞄に付けてあるおもちゃの兵隊の人形の傍らに置き、昂汰はステージへと向かう。
――仲間と共に歩き出した少年には、一体何が待っているのか?
きっとこの先も数多の困難が待ち受けていることだろう。
そしてその時、少年は仲間と共にその音楽を奏でる。
粗野で単純で脆くて安っぽく、そして美しい僕らの明日への賛歌。
ロックンロールを。
「さあ、僕らのライブの始まりだ!」
最終回となります。
洋楽ロックの好きな方、またそうでない方。この作品を少しでも楽しんで頂けていたら幸いです。
最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
↓ 高岡 翔子の青春時代を描いた『ロック少女と仮面バンド』も宜しくお願いします。
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