特殊船竜飛丸の愉快な生涯
そもそもの始まりは1939年ごろのことであった。
当時、日華事変の長期化や三国同盟の締結などによって日米の対立は本格化し始めていた。
このまま行けば石油などのアメリカに頼るあらゆる資源を失いかねない・・・。
よろしい、ならば南方に進出すべき!ちょうど南方には蒋介石を支援するための援蒋ルートもあることだしどう方面に進出し、やつらの補給路を遮断してしまおう。
そういう考えが台頭することとなる。
さて、その際に問題となったのは日本軍の兵力展開能力であった。
日本陸軍はもともと対ソ連を目標としていた。
そのため、満州方面での戦闘を予定したこともあって南方での作戦にはほとんど無知の状態であったのだった。(もちろん研究はされていたが、それも非常に小規模なものであった。)
さて、その陸軍の参謀たちが必死になって考えた結果、南方での戦いは島嶼をめぐる戦いになる可能性が大であるとの結論に達した。
確かに、インドネシアやフィリピンは無数の島々によって構成されている。
どう方面を制圧するためにはどうしても海上機動戦力が必要となる。もっとはっきりいったら船である。
しかも、それはただ兵員を運ぶだけではない。
敵の待ち構える海岸線に兵力を送り込むのだから、出来る限り迅速に行えるようにせねばならない。
ああ、それに上陸を援護するためにある程度の攻撃力も必要だ。
もっとも、日本陸軍はそれに対する回答をすでに得ていた。
神州丸という輸送船である。
こいつは大発と呼ばれる上陸用舟艇を十隻も搭載でき、さらに、カタパルトを用いて数機ではあるが戦闘機も発信できるという優れものであった。
だが、これは確かに優れたものではあったが、一度に展開できる兵力は非常に小さなものにならざるを得なかったし、艦載機を発進できても、着艦はできない使用になっていた。
そのため、その後継として今度は飛行甲板を有する小型空母を開発することがすでに決定していた。
だが、それでも搭載可能な機体の数は十機程度でしかなく、やっぱり能力不足であることは否めなかった。数を増やせば何とかなるかもしれないが、陸軍の予算は無限ではない。
だったら海軍に上空直掩関連は丸投げすればよくね?と考える方もいらっしゃるかもしれない。
だが、世の中そう甘いものではない。
当時日本海軍は艦隊決戦に固執しており、それに準じた部隊編成であった。
そのため、陸軍部隊の上陸掩護なんて想定してはいない。
もちろん出来ないことはないだろうが、確実性は薄い。
それに第一、海軍の掩護を借りすぎるというのも、陸軍のプライドが許さない。
世の中というものは実にくだらないものではあるが、3割くらいは面子で回っているのだ。
ならばどのくらいのものが必要になるであろうか?
そんなわけで、早速用意する船の計画が練られることになった。
第一次大戦のがりポリ上陸作戦などの事例などが参考にされた結果、こんな感じになった。
新鋭戦闘機(ここでは一式戦闘機を想定)20ないし30機以上
対地攻撃能力(トーチカや滑走路などの硬目標を破壊できる攻撃機を搭載させること)および自己防衛能力(つまり、ある程度の艦艇を撃退できるような火砲を乗せることができること)の付与
上陸作戦や輸送船団の指揮を取れるように、司令部設備を有すること
2個大隊ないし1個連隊を輸送できること。
・・・などであった。
ここに、艦載機を発信させるためのある程度の速力も必要であることがわかった。
空母というものは、もともと発艦および着艦には合成風力というものが必要で、そのたびに風上に向けて全速力を出さねばならないのだ。
いままでの九七式戦闘機ならばそれほど速度は必要なかったものの、大陸戦線の様相でも明らかなように現在の飛行機は日進月歩で、航空機はいずれ大型化し、速力も500キロ以上が当たり前になるというのは目に見えていた。
当然ながら、大型化すればするほど空母に搭載できる機数は少なくなるし、速度が上がれば上がるほど空母自身の速力も相対的に上げねばならない。
現在の概算必要速度ですら20ノット以上は必要であろうという結論に達した。
軍備の整備は今この瞬間だけではなく、未来もまた見据えなければならないのだ。
そこから割り出される船体規模は少なめに見ても2万トン以上、さらに全長も200メートルは必要であるとの結論が出された。
これなんて「ぼくのかんがえたさいきょうのあきつまるみたいなきょうしゅうようりくかん」である。
・・・ということで、研究チーム一同頭を抱えることになってしまった。
こんないいものを海軍が譲ってくれるわけがない。
造船所だって限られている。
つまり、どうしようもないのである。
ここで空母調達計画は放棄されることとなったのか?
否、これこそ始まりであったのだ!
全員が「はいはい解散解散」といいそうになったのだが、そこにひとつのニュースが飛び込んでくる。
なんかスクラップにされる予定の大型客船が日本で係留されているらしい。
この時代、世界中では客船・・・それも大型高速客船の建造がブームになっていた。
日本でも浅間丸型や新田丸型客船を就航させており、他にも橿原丸型客船を建造していたりした。
だが、欧州のそれは常軌を逸していたといっても過言ではない。
なにしろ、5万トン級客船が欧州を中心に次々と建造されていたのである。
特に、現在ではドイツのブレーメン級やイタリアのレックス、フランスのノルマンディーなどのような超大型客船が存在している。
また、それ以前の船にもドイツのインペラトール級客船やオリンピック級のような大型客船があったのだが、その多くは世界恐慌などのあおりを受けて次々と解体されていった。
だったら、それを使用すればいいんじゃないのか?
ちょうど折りよく、日本でもアドリアティック号と呼ばれる客船が解体されることになっていた。
基準排水量2万トン、全長222メートルという堂々たる船で、客船会社の名門、キュナードライン社が大西洋航路にて使用していた大型客船であった。
本来ならば1935年に解体される予定だったのだが、日本がワシントン、ロンドン海軍軍縮条約を脱退していこう、海軍軍備の建設に忙しく、とてもじゃないが解体船に貴重なドックや労働力をくれてやる暇などなかったのだった。
そのため、往年の豪華客船はむなしく広島県尾道にて係留されることになったのだった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり
陸軍が目をつけたのである。
実は、海軍もこいつには目をつけていたのだが、完成が1907年と古く、あちこちガタが着ていたものだから、コスト的に割に合わないと考えたのである。
しかし、陸軍からすれば非常にうれしいものであった。
なにしろ元が客船である以上、兵員を輸送するペイロードには十分余裕がある。
早速、陸軍はアドリアティック号を購入し、改装計画を立案し始めた。
乗員の確保のために海軍の予備士官たちも召集された。
陸軍は独自に船舶隊司令部と呼ばれる部門を用意し、また船舶工兵や砲兵を用意して陸軍の保有あるいは運用する艦船の運用を行っていたのだが、何しろ陸軍初の大型船であることもあって、自身の未熟さも知っている陸軍は要員に海軍の人材を欲したのだった。
スタイルとしては、イギリスで建造された世界初の装甲空母アークロイヤルを参考にすることが決定された。実際、現在海軍は3万トン級の装甲空母を計画中であるが、こいつにもアークロイヤルをはじめとするイギリスの空母の思想が入っていた。
だが、他にも問題はあった。
資材は陸軍のポケットマネーからだされることになったのだが、肝心の造船所の手配がまだだったのだ。
いかな陸軍といえど、相応の施設がなければこの船を改造することなどとてもではないができない。
神州丸の時は、石川播磨造船に頼んだのだが、今回は船が大きすぎるのでそちらに頼むことは出来なかった。
かくして、陸軍は苦境に陥ることになる。
しかし、そこに召集された海軍の一人の予備少佐が手を上げた。
別府の大神にある親戚の会社のことを陸軍に教えたのである。
その造船所は第一次大戦で戦時景気に乗って大もうけすることが出来て、多くのドックを整備していたのだが、その後の不景気の連続などですっかり元の小さな造船所へとその規模を大幅に縮小させていた。
そこには、1基だけだが、2万トン級ドックが存在していた。
もっとも、そこは未完成のままで放り出されたところであったが・・・。
未完成ゆえに国に届出もされていなかったのだが、その少佐はそのことを知っていたこともあって陸軍の船舶隊司令部に打診したのである。
これは、自分の親戚の造船所の苦境を回復させたいと考えていたことと同時に、自分を条約によって首にしやがった海軍に対する個人的な恨みからによるものであった。
はっきり言って私怨である。これはひどいといわざるを得ない。
だが、そんな理由など知らぬ陸軍は、これにすぐに飛びついた。
早速、軍の機密資金が造船所に投下され2万トン級ドックの建造およびアドリアティック号の改装を命じた。この事態に海軍はあわててその造船所に参謀などの要人を派遣したが、すべては遅すぎた。
造船所はすでに陸軍と長期の艦艇修理改造契約にサインしてしまっていたのだ!
まぁ、造船所からすればちゃんとお金を支払ってもらえればそれでいいのだし、しかも、陸軍からの長期の注文を取れるとなれば飛びつく以外ないのである。
このため、造船所のある別府湾北部は陸軍船舶隊の母港として機能することとなる。
また、船舶隊司令部自身も本部は門司にあるのだが、その支部を近くの港町である日出に配置するなどさながら軍港化を推し進めることになる。
これ以降、この造船所は海軍の口さがないものから「陸式鎮守府」の異名をとられることになる。
兎にも角にも、1939年10月にアドリアティックは完成した造船所のドックに入居して改装工事に入ることとなった。
そこには、造船所から徴兵した工員たちも投入され、文字通り大車輪で工事が始まった。
設計には艦政本部から放逐された技師たちが中心となって行った。
艦政本部内部での派閥闘争によって何人かの技術者が民間造船所へと出向させられていたのだ。
彼らにしても自分たちを放逐した主流派には恨みつらみが溜まりまくっていたこともあって、喜んで陸軍空母の設計に協力することとなる。
設計としてはシンプルなものであった。
まず、上部構造を取っ払い、その跡地に航空機の格納庫や飛行甲板などを設置、当初は環境は乱気流の発生の危険があるとして搭載を身をくるべきという声もあったが、航空戦だけでなく、上陸指揮などを船上でとることが必要とされている以上、艦橋は必要と判断され、島型艦橋に煙突をくっつけたスタイルがとられることになった。
煙突自体も15度の傾斜を加えることで、煙の流れを良好にさせた。
早期建造が必要ではあったが、それで失敗してしまっては元も子もないのだから・・・。
艦首構造もこれまでの日本艦とは一線を画し、ハリケーンバウを採用した。
これは、イギリス空母以外にもアメリカのレキシントン級空母を参考としたものであった。
航空機の格納庫は一段のみとされた。
これは、元々の船体構造が客船であり、船体がかなり高めに出来ていたためトップヘビーを防ぐ狙いがあった。その代償として、航空機の搭載能力が大幅に減る結果となったのだが、最低でも30期あればよかったこともあってそれほど問題にもならなかった。
機関およびボイラーは陽炎型駆逐艦と同じものが使用されることになった。これによって12万馬力で32ノットという高速を発揮することが出来た。
また、エレベーターはダイハツが上げられるように大型のものが設計されていたが、その肝心の大発は10隻そこそこしか搭載できず、結果として上陸兵力の展開能力に不満を残すことになったが、兵員の輸送力は1個連隊を完全武装で輸送できることもあって、一応満足されることとなった。
火砲はさすがに海軍のものを流用することとした。
といっても、新型設備は使わせてくれるはずがなく、仕方がないので旧式の12センチ単装高射砲6基6門および、単独行動でも戦えるように20センチ単装砲6基6門をそうびさせた。
古鷹型重巡洋艦用の予備砲身を倉庫から引っ張り出したものであった。
なお、この20センチ砲は限定的ながら高射砲として運用することも出来た。
また、設計陣のネタとして長良から下ろされた61センチ連装魚雷発射管も2基搭載させた。
これら艦砲などの接収に対しても海軍は相当反発したが、それにはやはり海軍の非主流派閥が裏で陸軍に協力することで解決した。
その代わり、陸軍はその派閥に対してかなりの援助を強いられることになったが・・・。
こうした様々な主流派などに恨みを抱いている非主流派閥や元海軍士官たちからの有形無形の支援のもと、新機軸を用いた末、1942年2月14日、ついにアドリアティックは元とはかけ離れた姿を別府湾に浮かべることとなった。
船名も元のアドリアティックではなく、青森の竜飛岬から名を取られて竜飛丸と命名されることになった。
海軍の空母が龍や鶴などの空を飛ぶものを名前としていたため、それに影響されていたというのもある。
こうして完成した竜飛丸ではあったが、搭載機数は戦闘機22機に攻撃機18機と非常に中途半端な数となってしまった。
理由としては船体がトップヘビー気味であり、飛行甲板を一段しか設けられなかったこと、またそれに加えて大発の搭載スペースや整備区画、燃料弾薬搭載区画、船員に加えて上陸作戦用や司令部要員の居住区画などを設けたことで、空間に余裕がなくなっていたためである。
それでも、ある程度の作戦ならば単独でもこなせることが出来ることもあって、陸軍上層部は一応の満足をすることとなった。
他にもあきつ丸や神州丸などといった上陸せんだんを同時運用するため、戦力の不足は船の数で補えばよいと考えられたためだ。
また、乗員の多くはこれまた元海軍の予備仕官や元軍艦のりが大半を占めていた。
民間線から徴用するという案もあったのだが、民間線の船員も足りてはおらず、どうせならば海軍の元乗組員を使えばよいということになった。
使用している機器の多くが海軍からの払い下げあるいは略奪品であったことも大きく影響している。
竜飛丸の初陣は意外にも早かった。それと同時に、その初陣は当初考えられていたものとは全く違った形であった。
完成した竜飛丸は早速訓練を行うこととなり、早速相模湾にて訓練を開始することとなった。
そんな中、1942年4月8日午前6時30分 三浦半島沖を航行中で朝の発艦訓練を3時間後に控えたときに一本の急報がとんでくることとなる。
小笠原近海に、アメリカ海軍の空母機動部隊が接近中である・・・。
この報告に竜飛丸の上層部は大慌てとなった。
当時、竜飛丸とその航空部隊を実質的に指揮していたのは宮崎駿介予備少将であった。
本来の指揮官は陸軍の海上飛行隊司令の相沢大佐なのだが、彼は参謀本部勤務が長かったこともあって、海上勤務は初めてのことであったため、実質的に宮崎少将に一任していた。」
宮崎は、すでに60を超えた最古参の海軍将校の一人で、日本初の空母若宮の航海長を勤めた後、鳳翔で副長をつとめるなど、航空屋の一人であったのだが、出世コースから外れて予備役に回されたところを海上航空部隊の専門家を欲していた陸軍に頼まれて、めでたく再雇用となったのである。
瓶底眼鏡をかけた毛むくじゃらのこの老将はしばらく腕を組んで考えるふうを見せた。
竜飛丸には一式戦闘機が16機に九六式襲撃機が12機、実験用に搭載されたキ44(後の二式戦闘機鍾)それに航空機の発進および短距離ながら洋上飛行をエスコートするべく派遣されていた海軍の九六式艦上攻撃機が5機であった。
だが、この部隊は発艦はできても着艦はできないパイロットが大半を占めていた。
元々、空母への着艦は制御された墜落とまで言われるほどの高等技術である。
それに、竜飛丸のパイロットたちは支那戦線で活躍したベテランが多くを占めていたが、彼らとてそうやすやすと着艦が出来るわけがない。
弾薬も一応搭載されている。
だが、搭載されているのは対艦用のものはネタで持ち込んだ6機の艦攻の魚雷が各一本ずつ。
残りは陸用爆弾だ。これでは、威力のある攻撃をかけるのは困難である
また、一応、護衛として駆逐艦が一隻だけついてきてくれているが、それとて旧式の第31号哨戒艇(旧名二等駆逐艦菊)である。
水上先頭に持ち込もうにも、敵は巡洋艦部隊もいるようなので、残念ながら勝てるわけがない。
とはいえ、ここで戦えるのは竜飛丸しかいなかったことも確かであった。
ゆえに、宮崎は助言を下した。
「閣下、ここは帝都におわす陛下と100万の臣民を守るべく出動すべきです。」
その言葉に相沢はうんと頷いた。
どうやら彼も同じ考えだったようだ。
「わかった。船長、全速力を持って敵空母部隊を追撃せよ!」
「了解!第五船速!針路0-3-2」
直後に、船長を勤めていた来島義男予備少佐は全速で小笠原沖に向かうよう命令を出した。
やがて、竜飛丸が館山沖に達すると偵察機として、3機の艦攻を小笠原近海をめざして発進させた。
数時間前に九六式陸攻が敵艦隊に接触しており、それから得られた情報によると、敵は帝都空襲をもくろんでいることが考えられた。
ただ、こっちはまともに攻撃をかけられるのはせいぜい20機程度である。
だが、敵は空母2隻、常識的に考えれば200機はいるだろう。
残念ながら、まともに当たれば返り討ちに会うことは確実であろう・・・
「この辺りからの出撃しかありませんな」
航空隊で指導員を勤めているある海軍大尉がヤレヤレとした表情でいった。
制空隊の隊長を勤めている陸軍の黒江少尉もコクリと頷いた。
「それしかありません。」
海軍大尉はきっぱりと言った。
この大尉、実は真珠湾空襲を成功させた淵田中佐と同期で、淵田のライバルであった程の腕を持つ凄腕パイロットなのだが、乱視のために南雲機動部隊からおろされたという悲しいことがあった男であった。
さすがに、人材不足と入っても病気もちをパイロットにしておくわけにはいかず、丁度いいので陸軍の空母に出向させていたのである。
「しかし、貴様はともかく他の海からの出向者たちはようやく発着艦が出来たばかりのジャクだぞ?」
「私が一機で何とかします。何、戦闘機の護衛さえあれば、相手に一泡吹かせてやりますわい!」
ガハハっと大尉は豪快に笑った。
「ちょっと待ってください、それではわれら陸軍の面子がたちませんぞ?」
黒江がちょっと待ちやがれとばかりにいった。
「しかし、陸軍さんは洋上飛行のノウハウはまだ・・・」
来島がそういったところで黒江は手で静止した。
「案内人をつけて頂ければ、ちゃんとついて来ますよ。」
黒江はニヤッと嗤った。
この一言が、後に『魔の黒江』と呼ばれる理由となるのだが、そのことはこの大尉や来島船長、宮崎少将らはまだしらない。
というか、当時彼らは大尉を除き全員がドン引きしたといわれている。
「この距離ですと、たしか隼の増層はつけなくても十分に届きますので、250キロ爆弾を一発搭載したいと考えております。」
「しかし、・・・」
なおも渋る顔をした来島では会ったが、そこで相沢はいった。
「そこまでだ。船長、私からの命令だ。本日〇七〇〇に攻撃隊を発進させる。」
「攻撃隊はベテラン中のベテランを中心とする。何、心配することはないさ」
宮崎が語りかけるようにやさしく来島に声をかけた。
「・・・承知いたしました。」
そこまでいわれては仕方がないと来島はため息をひとつつくと海軍式の敬礼をした。
だが、それはどこか色気のあるものであった。
それから30分後の午前7時10分、竜飛丸の飛行甲板には6機の一式戦闘機と1機の二式単座戦闘機、8機の九九式襲撃機。それにエスコートと攻撃隊をかねた3機の九六式艦攻が発進準備を整えていた。元々、早朝の訓練を予定していたこともあって、準備されていたこともある。
そのとき、ようやく偵察機の一機から八丈島の西方に帝都方面に進む小規模な艦隊を視認したとの報告を受けた。だが、直後にその偵察機からの連絡は途絶えた。
これが米軍の艦隊であろうということは決定的に明らかであった。
すぐさま竜飛丸は風上に向けて全速力を出した。
「現在速力、30ノット。いつでもいけます!」
「よろしい、全機発艦開始せよ!」
相沢の命令を受け、すべての機体が発動機の唸りを上げて発進していった。
およそ20分後、発進を完了した攻撃隊がどう地点を目指して突き進んでいった。
竜飛丸からの攻撃隊がアメリカ艦隊を発見したのは攻撃隊を発艦を完了する直前の午前8時22分のことであった。
当時アメリカ海軍は竜飛丸からの偵察機を八丈島からの期待であると考えており、付近に機動部隊がいるということには考えはいたってはいなかった。
そのため、戦闘機も十分な数が準備できてはいなかった。
無論、ホーネットの護衛を行っていたエンタープライズにはまだまだ多くの戦闘機がいつでも発進できるようにはしていたが・・・。
しかし、日本軍の攻撃隊は以外にも低空からのいきなりの接近となったことで、アメリカ軍の書道は送れた。
来島が、できるだけ敵からの発見を遅らせるために低空からの攻撃が望ましいといっていたからである。
搭乗員たちの多くはアメリカ海軍がレーダーを使っていることにはあまり知らなかったのだが、来島からの言明であったことも合ってしぶしぶ従っていたのだが、それが功を奏したのだ。
攻撃隊は輪形陣をくんでいた護衛艦艇を一発も打たれず飛び越え、ホーネットに向かってまっしぐらに突撃していった。
陣形の中に飛び込むと、陸軍の航空隊は一斉に高度を取って爆撃体制をとった。
一方海軍攻撃隊(といっても3機だけだが)はそのまま低空で突撃を続けた。
慌てた空母や護衛艦艇の砲がもっとも狙いやすい海軍の雷撃隊を狙って砲撃を始めたが、以外にも付近で爆発することはなく、そのまま悠々と3機は突撃を続けた。
それは、幸運であると同時に、必然でもあった。
低速で飛行する布張りの複葉機では、弾丸では発火時間が早すぎて十分な威力を発揮できなかったのである。
それゆえ、3機の雷撃機は撃たれまくっているにもかかわらず一機の脱落もなく一斉に魚雷を放った。
ほーネットは回避行動を始めていたが、到底間に合うものではなかった。
なにしろ、発艦作業中にいきなり襲撃を受けたのだから。
彼ら風にいうならば、ガンマンが食事中にいきなりインディアンが突入してきたようなものだからだ。
結果、2本の魚雷をホーネットは食らうこととなる。
その衝撃は最悪であった。
彼らはいまだ爆弾をたんまり搭載したb25を発進させている途中だったのだから。
そのうち一機が滑走中に艦橋に衝突、信管を起爆させたのである。
直後に大音響とともに、黒煙と炎がホーネットを包んだ。
「すげぇ・・・」
魚雷を発射して離脱中の大尉は指揮官席から燃え盛るホーネットを見つめて言った。
帰り際、陸軍の九九式襲撃機が止めとばかりに250キロ爆弾を投下しているのが見えた。
だが、慣れていないようでまだまだ十分な命中を与えてはいないようだった。
それから2時間後、復旧が不可能と悟った米海軍はホーネットを雷撃処分しようとしたが、竜飛丸からの連絡を受けて慌ててやってきた日本艦隊が乗員の脱出作業を続けていたホーネットを発見し、護衛の駆逐艦を撃沈した挙句に拿捕してしまう。
後にホーネットは空母蒼鳳と改名されて日本海軍空母機動部隊の一端を担うことになるのだが、それはもっと後の話。
攻撃隊は攻撃終了後そのまま館山へと向かうことになった。
パイロットたちの多くはまだ着艦に慣れておらず、戦闘での疲労や損傷などを考えると竜飛丸よりも設備の整った地上基地でおろすのが得策と考えられたからだ。
その周辺には、陸海軍の飛行場が整備されていた。
竜飛丸も、発刊した直後に進路を南にとり、館山方面にある見方のエアカバーに入っていたため、攻撃を受けれ心配は少なかった。
いや、そもそも海軍は攻撃を翌朝だと考えていたこともあってすでに迎撃の準備は整っていたのだから、もしもエンタープライズが単独で攻撃を続行しようものならば返り討ちにあっただろう。
だがしかし、日本は空母一隻をしとめたものの致命的なミスをおかした。
アメリカ軍の爆撃部隊を見逃してしまったのだ。
結果、2機の攻撃機を除く14機が爆撃をおこなった。
損害は極めて軽微なものではあったが、その衝撃は大きなものであった。
その責任は一時はもう一隻の空母を取り逃がした竜飛丸上層部に擦り付けられようとされたが、彼らは空母一隻をしとめており、さらに捕虜からの話によると、爆撃機2機を発進させることが出来なかったという。
そして、竜飛丸のパイロットたちはまだまだ十分な習熟が出来なかったのにその線化を上げたのである。
これは賞賛こそされても、非難されるいわれはなかった。
また、海軍の非主流派が竜飛丸をべた褒めした上に、報告を受けた陛下からも船長や海上飛行隊司令の相沢にもお褒めの言葉を賜ったことから、責任を擦り付けることが出来なかったのである。
これによって、陸軍機を飛ばすというアイディアを見抜けなかった海軍や防空を十分に全うすることの出来なかった陸軍航空部隊はすっかりその面子は丸つぶれとなった。
結果、船長の来島たちは陸軍から感状や勲章をもらったりと色々いい目を見ることとなる。
その後も竜飛丸は相沢や宮崎、来島ら海上飛行隊のスタッフたちの指揮の下、各地で戦うこととなる。
この数ヵ月後に起こったミッドウェー海戦では、搭載機がエンタープライズとヨークタウンからなる敵機動部隊を発見し、このデータを南雲艦隊に送る一方で自らも攻撃隊を発進させてエンタープライズを大破させた上に、その後ミッドウェー上陸作戦でも一木支隊の司令部として機能した。
その後、ソロモンのガダルカナルをめぐる戦いではその豊富な物資搭載能力と高速そして高い攻撃力を生かし、夜間での物資揚陸作戦や増援部隊の揚陸作戦、そして、その作戦におけるエアカバーの役割を担った。
また、ヘンダーソン飛行場の空襲に際しても陸軍航空隊を防空直援に投入すべくなんどか海上の野戦飛行場として活躍した。
さらに、続く1943年3月には攻撃を受けたアッツ島の陸軍部隊を救出すべく、修理と補給中であった竜飛丸は、これまたわずかな護衛を引き連れて出港し、霧に紛れてアメリカ軍機動部隊を襲撃し、霧の中にもかかわらず航空隊を発進させてサラに自らも突入して駆逐艦および護衛空母各一隻を撃沈した挙句に敵がいったん後退した隙を突いて地上部隊の収容を敢行するという無茶をやっている。
なお、この作戦には七尾湾にて訓練中だった潜水艦部隊が作戦に参加し、竜飛丸いか陸軍機動部隊を援護している。これによって、燃料不足で救出作戦を行えなかった海軍の面子はつぶれることとなった。
その後も戦局は流れ続け、1944年のビアクの戦いでは戦艦扶桑らとともに中止命令が届いたにもかかわらず作戦を強行して航空隊や地上部隊を輸送させて結果的にビアクを確保させることに成功している。
これは、日本軍が敵の上陸を受けつつも撃退した稀有な事例となる。
しかし、このために竜飛丸はその後のマリアナ沖海戦に参加することは出来なかった。
マリアナ沖海戦では海軍は蒼龍および赤城の空母二隻を失う被害を受けつつもかろうじてアメリカ軍機動部隊に大打撃を与えることに成功したが、同時に多数のベテランパイロットなどの航空戦力およびマリアナの失陥を許してしまうことにもなった。
レイテ海戦後の1944年末には、レイテを防衛するための陸軍部隊輸送作戦多号作戦に輸送船団旗艦として投入されて、輸送船団のエアカバーおよび、輸送に従事している。
このころ、艦載機は最新鋭の四式戦闘機疾風Ⅵ型(艦載機仕様)と海軍から強奪した彗星艦上爆撃機、九七式艦攻(光エンジン)に換装されており、またパイロットの引抜が少ない分非常に高い練度を確保していたため、輸送船団の上空を守り続けた。
しかし、その後の戦局を好転させることは出来ず、1945年2月、南号作戦でのヒ88船団Gと呼ばれる数隻のタンカーおよび護衛艦艇とともに一路、門司をめざした。
途中、何度か敵の空襲を受けるも竜飛丸飛行隊によって撃退され、さらに潜水艦は護衛艦艇によって防がれ、タンカーを一隻失うものの、何とか門司を経由して別府湾に帰りつくことが出来た。
このころには相次ぐ連戦によって竜飛丸はぼろぼろになっており、大規模なオーバーホールが必要となっていたため、即座にドック入りとなった。
航空部隊は非常に高い練度であったこともあって陸海軍の共同部隊としてそのまま北九州の防空部隊としてはいびされることとなった。
しかし、竜飛丸の戦いは終わることはなかった。
1945年8月9日、突然ソ連が対日参戦を行い、満州、樺太、千島列島に侵攻。
特に満州と樺太には多数の法人が取り残されていた。
同15日、日本は降伏をしたのだが、竜飛丸は日出基地に残されたわずかな燃料を引っ掻き集め、さらに北九州にいた旧竜飛丸航空隊やハッ着艦が可能な能力を有する教官級のパイロットを機体込みで問答無用で呼び寄せると、付近にいた少数の海軍の空母笠置、そして潮や花月を筆頭とした駆逐艦、大淀、酒匂などの太平洋戦争を生き残ったのべ30隻近くの艦艇を引き連れて樺太沖へと向かうと、同地にて大規模な邦人輸送作戦を強行した。
それを防ぐべく、ソ連海軍も艦隊を出撃させて、ここに第二次大戦最後の海上戦闘が発生した。
この戦いでも、いまだそれなりの練度を有していた日本海軍水上部隊によってソ連艦隊は壊滅。
これによってソ連の千島侵攻のスケジュールは大きく崩れ、かわりにアメリカ軍が上陸し、南部および中部千島列島は対ソ連の最前線となる。
そしてすべてが終わった1955年10月、陸軍空母竜飛丸は生まれ故郷に近い、長崎県佐世保にて解体されることとなり、その栄光に満ちた半世紀近い生涯を閉じた。
現在では広島県尾道にて「竜飛丸記念館」にアドリアティック時代の装飾品や写真、そして竜飛丸時代の航行機器や錨などが展示されている・・・。
海軍予備少将 来島義男著『陸軍空母機動部隊かく戦えり』より抜粋
どうも、今回架空戦記創作大会に参加させていただきました。
結構ぎりぎりでしたが・・・(^^;
今回は空母や航空戦艦もありということでしたので、最初はイタリア海軍の航空戦艦あたりを考えていたのですが(沈没したレオナルド・ダ・ヴィンチが魔改造されて航空戦艦に生まれ変わったりとか)、ちょっとアイディア的に微妙でしたので、客船改造空母にしてみました。
史実の改装空母は飛鷹などが有名ですが、その速度などは軍艦としては鈍足でしかも小型でした。
ですので、どうしても活躍させるには一定の大きさが必要不可欠です。
そんな船ねぇよ・・・と思って探してみたら・・・ありました「アドリアティック号」です。2万トン級ですので、空母として運用するのなら文句はありませんし、この時代、イギリスは客船を仮装巡洋艦として運用する前提を求めていましたので、十分です。
しかし、それだけでは面白くないのでひねくれた考えで陸軍の所属にしてみました。これなら早期に失われる心配もすくなさそうですし、上陸作戦などで活躍しそうです。
その結果・・・なんかこんなかんじになっちゃいました。
いずれ、航空戦艦モノも書いてみたいです。