とてもとてもつまらない話
この短編は、連載『オルコットの解けない雪』(旧題・ロマンチック☆全裸)の閑話休題にあたる小説です。そちらを先に見たほうがよりわかりやすいです。
俺とレオの話をしよう。
いっておくが、最初はとてもつまらない話だ。なんといっても俺がこの物語の主人公なのだから最高にキマってないんだ。こういうのは、道すがら暇つぶしに話すのにも、聞かされてる奴が寝てしまいそうなくらいのダサイ話だってことをよくわかってくれ。
だが、この話にレオが出てくる以上は、そこからはもう、物語というよりはドラマチックな伝説みたいなものだ。俺は今から、そういう話をするぞ。
言うなら俺の学生時代は、かぼちゃみたいなものだった。意味が解らない? まあ聞いてろよ。別に寝ててもいいからさ。
俺は自分で言うのもなかなか要領がよくて、他人が自分に期待していることを察知できる子供だった。俺は長男だったから、親に期待されて育った。だけど、ある日勉強をするのがめんどくさくなってやめたんだ。勉強は嫌いじゃなかった。でも好きでもなかったし、勉強の代わりに昼寝できると幸せな気持ちになるのを俺は知ったんだ。
すると、俺の親はこぞって俺が病気なんじゃないかと疑った。俺が勉強は飽きたんだと正直に話すと、両親の関心は一気に弟に向けられた。今まで大きな実をつけるだろうと思っていた甘いスイカの苗木が、本当は野かぼちゃだったと知った感じだったな。弟も、まんざらでもない感じだった。ようやくスポットライトが向いてきたなって感じで、どんどん努力して、俺よりもずいぶん賢くなった。すごいよ、あいつは。俺は別に妬んだりしなかったし、あいつも「兄ちゃんは別の道が行きたかったんだよね」とお人よしっぽく勘違いしてた。別に何の意図もないさ。
そのあたりから俺は両親と口をきかなくなった。両親は俺には金だけ与えておけばよいという感じで、俺が問題を起こせば保護者らしく心配はしたが、それまでだった。かぼちゃは適度に水を与えておけば、雑草よろしくたくましく育っていくはずだと信じて疑わないようだった。俺にとってはそれは好都合だった。一人でいると誰も俺に無駄な期待をしないからだ。うちの長男はすごい、と近所に言いふらすことがなくなったから、俺も気軽にやれたんだ。
ハイスクールでは俺は人気者だった。笑うなよ。今でもそう思ってんだからさあ。
俺は一人でいるのが好きだったが、なんにしろ俺は気まぐれだからな、その場しのぎの快楽も好きだった。友達とのくだらない会話や、馬鹿をすることや、女の子とキスするのも好きだった。でも、彼女と1年以上続いたことはなかったな。俺はやっぱり一人でいるのが好きだった。一人でいれば「どうして、私を特別にしてくれないの?」って言われることもなかったしなあ。女は皆俺に期待するんだ。気持ちいいけど癇に障るやつばっかりだ。ひとりだけ、俺に何も求めない女と付き合うことになったが、やっぱり続かなかった。その女が遠くに転校することになって、何回か電話にでないでいたら自然消滅してたってやつだ。
俺はそのときまでは、時がたてば、妻や子供を持って、彼女たちを自分の命より愛してやまないことになると思っていたんだ。だけど、あの女と別れて、俺は何年経ってもこの性格だけは、このままなんだろうなって思った。俺は一人の時間だけを愛してるんだ。センチメンタルな気分になったのは認めるが、悲観はしてないぞ。運命の人に巡り合えないなんて可哀そうなんて言うやつらは頭がイカれてる。
眠くなってきたか? 残念だなあ。ここからいいとこなんだ。今までは寝てもよかったが、ここからはそうはいかない。
お前が知りたがってたレオと俺が出会うところだ。ここはすごく劇的だと思うんだよ。いいか、続けるぞ。
正直に言うと、レオと出会ったことで、俺のひねくれて腐った性格は何一つ変わらなかった。俺のギャンブル好きも治らなかったし、女を情熱的に愛することもない。……もちろん、レオを永久に愛することを誓ったっていうオチでもないぞ。
言ってなかったが、俺は夜中に散歩するのが好きなんだ。ハイスクールの最終学年だったときの俺は友達と夜の街で別れたあとに、よく森に行ってたんだ。黒い森が街のはずれにあるだろ? あそこだ。目的はたいしてない。人が入るのを禁止されている場所にはいるのは、とても面白そうだった。それだけだ。
俺は懐中電灯をもって、暗くてほとんど何も見えない暗闇に突撃していた。夜の森は昼間以上に静かだ。フクロウの鳴く声や、ちょっとした風で木々が揺れる音、近くで小動物が草を掻き分けて進む物音。空気を吸い込めば、苔の生えたような、冷たくて、湿った空気の匂いがする。懐中電灯の明かりだけがインクを垂らされたような視界の中で、選ばれたモノだけを照らすものとして、せわしなく世界を丸く切り取っていた。俺は頭上でざわめいている木々の枝や葉たちに向けて、光をぶんまわしていたんだ。幼稚だけど楽しい遊びだった。
俺は、足もとに小川が流れていたことに気付かなかった。水音がしていたはずだし、足で踏んだ地面の感触はぬかるんでいたのにな。
そして、俺は突拍子もなくこけた。まぬけだよな、俺もそう思う。
起き上がろうとしたとき、俺は右足が思うように動かないことに気付いた。懐中電灯を当ててみると、折れて落ちたような、太い枯れ木が俺のふくらはぎに突き刺さっていた。それはもう、見事に貫通してたな。イメージとちょっと違うが、刺さった感じだけでいうなら、セロリにフォークを突き刺したようなあっけなさがあった。サクッ! てやつだな。
俺はそれを見てはじめて足に激痛を感じた。燃えている炭が刺さったみたいに傷口は熱くなってきた。俺は錯乱して木を抜きかけたんだが、そこで俺の冷静な部分が天使の声をしてこう囁いたんだ。「抜いたらもっと血が出ますよ」俺はその通りだと思った。だから抜かずに、このまま歩いて帰ろうと思ったわけだ。
そして、重大なことに気付いた。俺は今、立てないのだと。足が痛みだけをヒステリックに訴えて、脳みそのいう事を聞かないのが腹立たしかった。当然、立てないから家には帰れないよな。俺の中の賢い悪魔の部分が「馬鹿だなあ」と笑った気がした。
茫然としていると、俺はようやく足元に水が流れていることに気が付いた。ちょろちょろと川の偉大な始まりが足元で芽吹いている。それは透明と赤のマーブル模様をしていた。俺の足からでた血は水の流れに乗って流れて行っていたんだ。
俺は怖くなった。立てないという事実も十分恐ろしかったが、血の匂いを嗅ぎつけた獣が襲ってくるに違いないと思った。俺の最期は、血が抜け、食べるものもなくひからびるか、狼の綱引き大会に自分の腸を提供するかの2択だった。
森がざわめいた。まぬけな人間がひっかかった、それ食ってしまえ、と言ってるように思えた。ここはちょっと童話っぽすぎたかな? まあ聞き流してくれよ。
俺は一人が好きだったが、死にたいと思ったことはなかった。人の近くにいるのが嫌いなくせをして、俺は将来大金もちになって、遊んで暮らせる金を集めるやいなや隠居するという予定があった。こんなところで、一人でただのたれ死ぬなんて、嫌だった。俺は半分泣いていた。半分は自分は死ぬのだろうと思っていて、もう半分はきっと何かの奇跡が起こって、俺のことを急に心配した親や友達がここへやってくるのだと思っていた。
だが、正しいのは俺の前半分だったわけだ。その夜は誰も来なかった。
夜が明けて、冷え切った体に日光が当たって俺は飛び起きた。俺は呑気にも寝てしまっていたんだ。寝たら死ぬかもしれなかったのに、俺は本当に馬鹿なやつだよな。
明るくなった周囲に誰かいないかと見回した。いるがはずない。朝っぱらから森にやってくるのなんて、今や童話の中の木こりだけだろ。両親や弟は俺を探さないだろうと思った。学校の知り合いもだ。俺は何日もふらふらと出歩いて数日家にいないということの常習犯だったからな。
まして、黒い森は広かった。立小便をしに来たり、ちょっと陰で怪しい薬を吸引するのには不向きの、深く、広く、昼でも暗い森だ。狼も出る。俺はそのだいぶ中心に近いところにいたんだと思う。車の音も、教会の鐘も音も届かないんだから。
そうだな、さっき言った、太陽が出て、明るくなったっていうのは半分くらい嘘だ。実際は空を覆っている黒い木の葉の影のすきまから、宝石みたくきらきらと木漏れ日が零れているだけだった。
足の様子を見ると、血はもう流れていないみたいだった。枯れ木と肉の隙間に血がこびりつき、固まっていた。それはそれでよしとした。まったくよくないが、とりあえず急いでどうにかする問題ではないと俺は判断した。
それよりも、俺は誰かが近くを通ったとき、いつでも大声がだせるように湧水をすすった。唇は水を吸い込んだというよりは、限りなく地面の真上を吸引した。泥の味がした。
次に俺はぼうっとしてきたのに気付いた。腹が減っていては声も出せないだろうと思って、近くの雑草を食べていた。当たり前だが、まずかった。飲みこんでも、口のなかにはいつまでもざりざりとした砂の粒があった。それがまずかった。いや。違う。おいしくないという意味じゃない。馬鹿はどこまでも馬鹿だっていう意味のほうだ。
俺は日が傾いてくるころ、猛烈な腹痛に襲われていた。原因は明らかに朝食べた草だった。スーパーで雑草が売っていたら、「セール中・中毒性のあるものです」っていうラベルがしてあったと思うな。
腹の中から金槌で殴られているような感じと、頭が締め付けられるような感じと、寒気を伴う吐き気でもう気が狂いそうだった。そのとき俺は狂人になっていたのかもしれない。俺はぐるぐるする頭の中で、人間としての尊厳と本能からの欲求を秤にかけて、やむなく後者をとった。えっとな……、これは小さな声で一度だけしか言わないぞ。……俺は糞をしたんだ。あ、やばい、今前歩いてる夫人方に聞かれたと思う? まあいっか……。
とりあえずだな、俺は失禁した。動けないにしても、下着を脱ぐくらい数秒でできたはずだが、俺はなにしろそのとき狂人だったんだ。そんな事は考えられなかったから、思いっきり服の中でした。俺は情けなくって泣いたね。気持ち悪いし、俺は人間じゃなくなった感じがした。豚畜生よりも汚い、汚物の精ってかんじ。むせび泣くためにひときわ大きく呼吸をすると、また臭くて泣いた。
俺は健気にも太もものほうから垂れてくる糞尿が傷口に入らないように、右足を少しずつ上にあげることにした。閉じかけていた傷は痛むし、その体勢はけが人がするようなもんじゃなかった。健康な時にそのポーズをやっていたら、一週間で腹筋が割れると思うぜ。
やがて夜がきた。
俺は怯えていた。この周囲の悪臭によって、昨日は来なかった獣がついに俺を食いにくるに違いないと信じていた。
俺は懐中電灯をつけなかった。眩しい光くらいで森の獣を撃退できると思っていなかったし、もうほとんど諦めていた。俺を食いにくる獣の獰猛な姿を見て恐怖し、絶叫しながら死ぬより、何もわからないまま息を詰まらせながら死ぬほうがよかった。
そのとき、俺は暗闇の中でカウントダウンごっこをしていたんだ。
あと3秒したら、森の狼たちが俺の喉笛に噛みつきにとびかかっている。そう想像して、数える。
3、2、1……。
何も起こらない。唾が上手く飲み込めずに吐きそうになっている俺がいるだけだ。
今のはミス。本当はあと5秒後なんだ。熊が爪を俺の頭につきたてるまで、
5、4、3、2、1……。
おっと、大成功、唾を飲むかわりに草の混じった胃液を吐くことができたね、えらいえらい。
俺は意識が朦朧としていた。森が黒いのか、俺が目を閉じているから真っ暗なのか分からなくなってきていた。死ぬということも、考えようとしてもすぐに霧みたいに掻き消えて、頭はからっぽだった。
俺の顔を、月の明かりが照らした。目蓋をこじ開けて、綺麗な月を見ようとした。それは月にしては眩しすぎた。ぼんやりとした景色は、しだいにはっきりとして、俺は――目の前に人がいることに気付いた。
目の前の男は、懐中電灯を俺にあてていた。月に吠える獣の毛のようにぼさぼさの黒い髪に、鋭い目、痩せていて背が高かった。
正直、嵐のような歓喜が身を包んだりはしなかった。
ただ、ああ人がいる、と思った。あとな、狼みたいなやつだとも思った。
俺が考えたのはせいぜいこの2つだ。あとはゾンビと同じだ。
「俺は食べても、おいしくないと思うぜ」
俺はそう言っていた。たぶん、そう言っていた。後でレオに聞いたけど、たぶん言ったって言うから、そうだ。
俺はレオに助けられた。
どうだ? 劇的だろ。今考えてもすっげえ興奮するんだ。……違う、痛いときの記憶掘りかえして喜ぶなんでマゾのすることだろ。ちげえよ。俺はレオが森の中に立っている姿に感動したんだ。あいつは寝ぼけたような顔をしていたが、狼のように、恐ろしく強く美しいものに見えた。
病院に運び込まれて、俺は数ヵ月学校を休むはめになったな。別にそれはいいんだ。病院の食べ物がやたらおいしく感じたし、寝るだけだったからな。
退院して、レオが実は俺のクラスメイトだと知って驚いた。
話をきくと、あの晩レオは月の写生に来てたっていうんだよ。おかしいだろ。月なんてどこから見ても変わらないのに。まあ暗い場所で空気が澄んでいると月が綺麗に見えるっているのも、べつに屁理屈じゃあないと思うが、それにしたって出来すぎってやつだろ。森は狭くないんだ。なのに、レオは地面に突っ伏してる俺を見つけた。俺の糞尿の臭いだって、普通は臭かったらその道は避けるだろ。レオはまさに、奇跡を起こしたすごいやつだったんだ。
それにだ。奴は俺に恩着せがましくする素振りは一切なかった。一つの命を助けたのに、それこそ見返りや報酬を求めてきてもおかしくないし、俺が息を吸うごとに金をとろうというやつはごまんといるだろうに、レオはなにもいらないというんだ。レオは何一つ俺に求めなかった。俺が感謝の気持ちをありのままに伝えると、困ったような顔をして、「そりゃ、死にかけたやつを見たら助けるだろ」と言ったんだ。
これって超クールじゃないか? 俺にはレオがスーパーヒーローだからこういうことをするんだと思った。レオはものすごい否定した。まあ実際レオは能力者じゃないしな。
俺はレオに憧れた。小さい男の子は皆一回はスーパーヒーローに憧れるだろ。なんだ、ヒーローを知らないのか? 石膏像だって、英雄の形をしたやつがいるだろ。まあいいや、説明するとだな、スーパーヒーローは、普通なら考えられないような奇跡を起こしながら、どんな見返りも求めないで人を助けて、それが普通だって言ってるやつのことだ。いっとくが、俺は憧れただけだぞ。それ以上のことは求めていない。ひまわりが太陽に憧れて、一日中そっちを向くように、俺はレオと一緒にいたくて、よく「おいヒーロー」ってしょっちゅう呼んでいたんだが、しばらくすると「俺を馬鹿にしているのか」って言いながら顔を殴られた。だから、今はその呼び方はやめたんだ。
ちょっと疲れたな。なんか喋ってたら喉渇いてきたし。でもまあ。ボスのいる酒場はもうすぐだからこのまま歩くぞ。
……つまりだな、レオには大きな借りがあるんだ。だから、情報を集めるのも奴だけはタダだ。でも奴は、借りなんてない、とかむっつり言うんだけどな。
それにな、これはレオには言っちゃあいないが……あ、帰ってもレオに言うなよ。
あのな、スーパーヒーローっていうのは、人に見返りを求めないで世話ばっかり焼いてるから、見合ったものを貰えないことが多いんだ。人を助けたらその度にメダルが与えられればいいんだが、そういうことがない。ヒーローもヒーローで、それが当たり前だと思ってるから、自分がどんどん疲れていってることに気付かないんだな。そしてやがて死んじまうんだ。こんなことってあんまりだろ?
だから、奴にはちょっと甘やかしすぎるくらいの人がいなくちゃいけないんだ。ヒーローには甘すぎる菓子で、糖分を養ってもらわないといけない。だから俺は自分の寝る間も惜しんでお前の作り手のことを調べ上げたんだぜ。
そういえば、この話をしたのは2度目かなあ。近くのカフェの店長にもしたんだ。あれは話の分かるオヤジだったな。
お、ちょうど着いたな。ここが俺の仕事場だ。地下の酒場だが、あんまり酒臭くないだろ? 換気がちゃんとされてるんだ。……あー、ボスが警察となんか話してるな。ボスはこの街の警官にも頼られてるんだぜ。まあ、話が終わるまで水でも飲みながら待ってるか。そうだ、レオのヒーローな物語はまだあるんだ。そうだ、あれは俺がギャンブルに負けに負けた日だった……。おい、きけよ、ナルシス。いいか、その日は霧がじっとりと服に染み込むような天気だったんだ……




