[21] mad as a March Hare(1)
ぼんやりとした視界のなかに、ぱたぱたと走り寄ってくる小柄な影が映った。亜麻色の髪が二房、身体の上下にあわせて揺れている。
「メイ……?」
幼い[長庚]は、しかとアリスを見つめ、言った。
「『学園』にもどって」
迷いのない口ぶりに、アリスは目をみひらいた。
メイは、硬い表情でくりかえす。
「もどって、迷い子。いますぐに」
「でも、俺……っエマに言われてきたのか? それとも[干戈]に?」
思い浮かぶのは、つめたい埃かぶった部屋。無表情に立ちつくす少女と、その主たる『赤の女王』が笑う様。
「……いやだ」
あの部屋は、いやだ。あの場所は、いやだ。なにもかもが気に入らない。消しきれず染みついた過去の痕跡が、彼の残滓が、無言で僕を責めるから――。
「アリス!」
メイは叫ぶ。
「だめ。これ以上は、もう、アレが許さない――」
はたと少年が我にかえったときには、遅かった。
座りこんでいた石畳は、丸く穿たれたように消え失せて。境界面には、いつかの『ダイス』で見たような黒いノイズがくすぶっている。とどまることなく、じわりじわりと広がっていく虚ろな円に、アリスは震えた。
「うそだ……ちがう、俺、……俺じゃない。俺が望んでなんか――!」
壊したいわけじゃない。消してしまいたいわけじゃない。そんな願いは、俺の――俺のなかに、ほんとうになかったか?
どこまでいっても異物でしかないこのセカイで、いっそ『あたりまえ』が砕け散ってしまったら、それ以外も受け入れられるんじゃないかって……ほんとうは。
受け入れて、ほしかった。
どんな形でも、どんな俺でもかまわないから。
「ちがう、そうじゃない……俺は俺を失くしたくないだけで、ほかのなにかを失くしたいわけじゃ……」
このセカイのあたりまえを、憎く思ったことがないわけじゃない。だけど、フヒトが言うから。たったひとり受け入れてくれた少年が、大切そうに語るから――そんなの、否定できるわけがないじゃないか!
フヒトの慈しむセカイに、俺が含まれていないとしても。
気づいてた。このセカイの理を認めることは、『アリス』をイラナイモノだと認めることだ。フヒトが、メイが、リヴが、なによりも大切に抱いているものは、『アリス』という存在を否定するものだ。
なにが箱庭を狂わせているのか、そんなの考えるまでもない。だけど言えるわけがない。認められるわけがない。
――きみは例外に届かない。例外はきみを救わない。
ユ=イヲンは言った。役無しの『アリス』を見下して。
――哀れだね。
すべてを見通したような目をして。
カワイソウな猫は嗤う。それでもきみよりかはマシだと言いたげに。理に認められた『例外』は、理に背反する『異物』を、嗤う――。
「うるさい――!」
荒れに荒れた心のまま、アリスは、工業区を逃げだした。
認められない現実に目を閉ざして、なんどもくりかえしてきた逃避を、また重ねる。気づくな。忘れろ。なにもかも。
どうしてここまで、だれにも会っていないのかなんて。走ってきた道筋が、いまどうなっているのかなんて。考えるな。
無数にただよう意識の欠片から、都合のいい『真実』を引っぱりだして、まるごと置きかえる。
それでいい。まだ大丈夫。まだ、致命的なエラーはでてないんだから。いいさ、観測者にさえ気どられなければ、ぜんぶなかったことにできる――。




