[20] My name is...
足が重い。
なんで、こんなに進まないんだ。走っても走っても、切り貼りした景色がつづくだけ。コピーコピーコピー。あふれかえる模造品。ああもう、なんだよ。いらいらする。
俺は、端にいきたいだけなんだ。
『壁』をぶちこわして、『外』を知りたいだけなんだ。
外なんかない? そんなはずはない。
だって、俺は落ちてきたんだ。外で生まれて、外で――。
なんで。
「俺、外を知ってるんだ……?」
アリスは立ちすくんで、ぼうぜんと空を見上げた。
煌々と光球の照る『天』は、皮肉なほどに青く澄みわたっている。雨も曇りも存在しない。学都の天候は、快晴と影の二種だけなのだ。
……では、この知識は?
雨と曇りを、俺はどこでみた?
外で。そう、外だ。ここに落ちる前、ここではないどこかで、……ほんとうに? ほんとうに、見たのか?
「うそ、だ……。うそだろ、んなわけ」
なんで。なんでだよ。
知っているのに、どうして知らないんだ。
雨に濡れた感触を、木陰で涼む風の温度を、どうして思い出せないんだ。
工業区は、まだまだ果てしなく、どこまでもおなじ景色が反復しつづけている。前にも、後ろにも、……未来にも、過去にも。
たとえば何十年前の景色とさえも、寸分の狂いなく一致するだろう倉庫街の中心で、アリスは、ぽつりとつぶやいた。
「『俺』は、だれだ……?」
何十回とこの道を駆けた。いいや、何百回、何千回、何万回、何億回と――。
積もり積もった記憶のデータベースが、求めに応じて異常な数の正答を差しだす。
考えちゃいけない。気づいちゃいけない。
俺は無垢でなければ。俺は無我でなければ。
……みとめてしまったら、俺はどうなる?
けたたましい警鐘が鳴り響いているのに、アリスは手繰ることをやめられない。
――冗談だよ。でも、そうだな、きみが望むなら。
ユ=イヲンは、憎悪のこもった瞳で俺をみて、思慕のこもった声で俺に言った。表情ひとつうごかさぬまま。
きみが、望むなら。
なによりも印象的に響いたのは、その言葉だった。アリスは笑った。覚えている。……ワラったのだ。
そのとき、アリスは、笑わずにはいられなくなった。表面上にただよっていた、眠りをさまたげられたときのような薄ぼんやりとした怒気を、たちどころにかき分けて。代わりに現れでたのは、嘲りじみた愉悦感だった。
カワイソウとカワイラシイが表裏一体となったような、絶妙に心をくすぐる衝動にふるえた。
――イカレてる……!
最高のエンターテインメントを見たときのような気分。そんな心当たりもないのに。困惑したアリス以上に、露骨に反応したのがユ=イヲンだった。
ユ=イヲンは、笑い、ののしりながら、まるで泣いているようだった。
悪意をむきだしにする少女を、まるで爪をたてる子猫のように感じていた。嗚呼、なんてカワイラシくて、カワイソウな。
どうして忘れていたんだろう。ちがう。思いだそうとしなかっただけだ。うたがおうとしなかっただけだ。薄っぺらな事実のその奥を、決して覗かぬように、と。逃げつづけていただけだ――。
「おれ、は……有栖來兎、だろ……?」
まてよ。なんでだよ。
なんで、呼ばれた記憶がないんだ。
ここにきてから名を呼ばれたのは、リ=ヴェーダから一度きり。その前に、いったい、だれが俺を「有栖來兎」と読んだだろう?
ひざの力が抜ける。崩れおちたまま目を閉じて、アリスは、つめたい道に腰をおとした。所在のない手指で、路面を埋めた石材の合間から土をえぐる。
――めずらしいお客さんだ。いいや、客と呼ぶべきではないのだろうね。いらっしゃい、迷い子。
しらない。
こんな声は、こんな男は、しらない。
俺はなにも、しらない。
――有栖という男がいてね。彼が語った物語だ……ウサギを追って穴に落ちた少女がめぐる不思議の国……きみはしっているのかな?
しらない。しらない。しらない。
――ちいさなアリス。きみに名前をあげよう。驚くべきことに、この私にもわずかな【権限】が許されているようだから。
あんたはだれだ。なにものなんだ。
うつろな領域に、声だけが響く。実体はなにもない。混沌とした空間には、ただ意思だけが満ちていた。
ここはどこだ。俺はだれだ。
――そうだな、あやつの影を色濃く引いているのなら、来訪者式に名を継がせてしまうのもおもしろいかもしれない。
くすり、と笑う、男の声。余裕と確信に満ちたその響きは、他の追随をゆるさない孤高の絶対者のものだ。
――招かれざる兎の子。きみの名前は、
「アリス!」
呼ばれたその名に、少年はハッと我に返って、まぶたをはね上げた。かたく握りしめていた石材の一枚が、ぽろりと砕けおちて消滅する――。




