[18] オネガイ(※)
※軽微な残酷描写を含みます。
「僕はね、もうもたないんだ」
いつになく晴れやかな顔で、兄が笑う。ユイは理由もなくおそろしくなって、思わず口を滑らせた。
「兄さん?」
その途端、兄が浮かべた表情の冷たさといったら。いつまでも忘れられない。笑った形のまま凍りついた無表情に、ぞくりとした寒気がおそう。
「フェン……」
震え声で呼びあらためたユイを、白藍の瞳が、じぃ、と見つめてくる。白い肌をふちどった透けるような金糸の髪は、その日もまた美しく光を反射していた。
「ユイ……『ユ=イヲン』。理から外れた異端の子。僕のオネガイを聞いてくれる?」
諾、と答えるいとまもなかった。
兄の手が伸びて、前髪のカーテンをかき分ける。ユイは、とっさに身を引こうとするも、さりげなく頭を固定されてうごけない。
力が入っているわけでもないのに。そこに兄の手があるというだけで、兄の意思があるというだけで、うごけない。
もとよりユイに、兄の意識にさからおうなどという考えは毛頭ないのだけれど、それでいてさえも違和感を覚えずにはいられない。……なにかが。なにかが、おかしい。
「うごかないで」
きっぱりと口にされてしまえば、そのとおりにせねばならない、という義務感にしばられる。
ドウシテ――問う声は、音にならなかった。
ただ、目を見開いてかたまるユイの前で、フェンが笑っている。白藍の瞳が、またたくたび。紫黒の両目で兄をみつめていたユイは、じわりじわりと己が侵されていく感覚にふるえた。
――それでも、拒絶感はわきあがらない。
「僕のコエを聞いて……僕のノゾミを叶えて……『ユ=イヲン』」
兄が望むならば。
なにも考えずにうなずいた。考える余地もない。俺のすべてはあなたのもの。さからう理由もない。すべて投げだして、身を任せてしまったのなら、あなたは笑ってくれるのでしょう?
フェンは、にっこりと満面の笑みをうかべ――。
白く細い指先が、ユイの視界を埋めつくし、ぼうぜんと見開いたままの瞳をえぐった。
微塵のためらいもなく右眼を挟みこんだ二本の指に、思考がまっさらになる。白い。頭のなかも目の前も。ただ、白くて。白くて。白くて、……アツい?
最初に感じたのは、熱。
痛みはない。
つぎに感じたのは、違和。
ほどけている。
ゆっくりと、けれど確実に。
コワレテイク。
兄の指先を受け入れた右目が膨大な熱をもって、ユイという存在から切り離され、崩れさっていく。
ユイには、すぐにわかった。味わったことのない感覚でも、はっきりとわかる。なぜなら、いま兄が行使しているだろう【権限】は、ユイに与えられたものなのだから。
――それは、まぎれもない【破戒】だった。
ユイの一部をコワしながら、フェン自身もまた、崩れていった。僕はもうもたない、と語ったそのとおりに。『逸脱行為』の代償だ――止めなければ、と思うのに、ユイの身体はうごかない。
兄の望みが、ここにあるのなら、どうしてうごくことができるだろう。
「フェ、ン……、フェン……!」
兄さん。兄さん。兄さん。
いかないで。ひとりしないで。
あなたにいかれてしまったら、俺はこのセカイで、どうして生きればいいの。
自壊すらも認められないまま、どうして存在していけばいいの。
ただここに在るだけで、孤独を思いしらされるのに。
ただここに在るだけで、絶望に打ちひしがれるのに。
待って。お願い。どうか。
ひとりにしないで。俺が嫌いでもいいから。俺のことなんか見てなくてもいいから。あなたの目的のついででいい。
こんなところで終わらないで。
完成なんてしなくていい。完結なんてしなくていい。したくない。永劫さまよえというのなら、せめてあなたのとなりがいい。俺の寄る辺は、あなただけなのに。
「いやだ――」
がむしゃらに伸ばした指先は、兄の衣に触れ、――つぎの瞬間、すり抜けた。
「お前はカミサマになるんだよ」
恍惚とした声だけを遺して、兄が消えてしまう。ユ=イフェンという存在が、無数の粒子に散って、溶けていく。
「意思を欠いた箱庭の神に――[調停者]にさえも匹敵する絶対者に――[破戒者]にはその権利がある――そのうえ[話者]を呑みこんでしまえば、例外に敵うモノはなくなる――わかるかい……?」
わかりたくない。わかってなんかない。
だから、いかないで。
俺は。
「お前は、カミサマに、なるんだよ」
例外でいたくなんか、ない――。




