[17] 未成熟なバランサー
青藍の髪を風にゆらし、まぶたを下ろしたまま、じっと動かず。その少年は、『学園』の奥に根を下ろす大樹のもとで、まるで眠りについているかのようだった。
「フェン……あれ、なに」
兄の手を引いて尋ねれば、見ているといいよ、とにべもなくあしらわれる。
彼に言われたのならばだまるしかなくて、ユイは、おとなしく息をひそめて、木の幹に身体を預ける少年をながめた。
疲れはて、まるで大樹だけが唯一の寄る辺であるかのように、ぐったりと背を預けていた少年が、ふと目を開ける。
あらわれたのは、金晴眼。すべてを敵視するかのような鋭いまなざしに、ユイは、思わず目をみはった。
閉ざされていたときには寝顔のように穏やかであった、あどけない少年の表情が、一瞬にして塗り変わる。黄金の瞳に険をのせて辺りを見まわし、それからわずかに肩の力を抜いて、また、まぶたを下ろす。
そのとき、ユイには、はっきりと感じられた。手負いの獣のような少年の一挙一動に応じて、周囲の空間がさざめいている。気づかぬのは、本人ばかり。
となりに並ぶフェンが、ちいさく吹きだした。
――なにかが変だ、と直感する。それがなにかもわからぬまま、ユイは、その少年に嫌悪を抱いた。
「ははっ……なんともカワイラシイ[調停者]だ」
フェンが笑う。
「あーあ。……まったく、あれに僕の終わりを狂わされたかと思うと」
笑っている。笑って、いるのに、どうして。
「虫唾が走るね」
フェンは、苦しげなのだろう……?
どうすればいい。どうしたら、兄は笑うだろうか。こんなイビツな笑みではなくて、心からうれしそうに。心から愉しげに。
ユイが知る兄の顔は、暗く翳っているか、愉悦にほころんでいるか、どちらかだ。ならば、笑ってくれる方がいい。どんな形でも、喜んでくれる方がいい。
兄の関心をさらっていった幼き[調停者]を、憎々しげに睨みつけて、ユイはつぶやいた。
「あれ、……コワしていい?」
「だめだよ」
やんわりと、しかし明確に制止したフェンを、ユイは不満げに見上げる。弟の視線を無視して、フェンは、昔を懐かしむように語った。
「[調停者]はね、必要なものなんだ。この箱庭の番人として、立ちつづけなければならない。[調停者]があやまることはない。あってはならない。セカイは常に、あれに味方する」
「……よくわからないよ、フェン」
「あれはね。絶対に損なわれてはならないモノだった」
また、白眼が暗く煮えたぎる。フェンの視線がとらえるのは、大樹に寄りかかる少年の姿だけ。――気に入らない。全身で兄は語っているのに、その口は必要なのだと説く。手をだすなと暗に告げる。ユイは、わけがわからずに、ただフェンを見つめていた。
「あれは、とても注意深く歩んでいる……一歩一歩に怯えながら、傲慢な虚勢を張り通してきた……いまのところはね。でも、――きっとじきにまちがえる」
「まちがえる? あれは、ただしくない?」
「怯えながら歩んでいるようじゃ、バランサーは務まらない。――[調停者]とは、意思だ。セカイの意思そのものと言ってもいい。異次元の高みに腰を下ろすには、あれは、あまりにも俗物的すぎている」
ゾクブツテキ、とユイは反復して、首をかしげた。
兄が語ることはむずかしい。兄から与えられた知識以外になにも持たないユイには、理解が追いつかない。だからせめて、一言一句忘れぬように、刻みつける。
「でも、必要?」
「ないよりはずっとマシだ」
「ふぅん」
そういうものなのだろうか。けれど、兄が言うのだから、そうなのだろう。
「……でも、お前がいるのなら、あれはなくてもいいかもしれないね」
ぽつり、と漏らしたフェンに、ユイは、分厚い前髪にさえぎられた奥の両目を丸めた。
「おれ?」
「そうだよ、ちいさな破戒者。お前は例外。このセカイでたったひとりだけ、理に縛られない存在。――お前は、この箱庭のカミサマにだってなれるだろう。お前を縛るモノはなにもないのだから」
兄の視線が、ようやくもどってくる。ほんのすこし持ち上げられた唇が形づくる笑みに、ユイは、なにも考えずにはしゃいだ。
「フェンは、うれしい? おれが、かみさまになったら、たのしい?」
「ああ。――とても、愉快だろうね」
兄が笑う。獰猛に目を細めて。口の端だけをつり上げて。瞳の奥には底しれない焰をくすぶらせたまま、心から愉しげに、笑う。
「そっか。……いいよ。フェンが、望むのなら」
――俺は、カミサマにだって、なってやろう。




