[15] 神の瞳(2)
「どうして……言いきれる……」
「どうして? ――はは! あはははっ」
ユ=イヲンは、ぷらぷらと足をゆらしながら、空をふりあおぎ、かすれた笑い声を響かせた。
「だって、彼はとても臆病だもの!」
ぴたり、と動きを止めたユイは、壁の上から身を乗りだして、色の違う両眼でフヒトを見下ろす。
紫黒の左眼と、月白の右眼。
どこまでも澄んだ分厚い闇と、まばゆいばかりに濁った薄光。
勝手に、うしろに引きそうになる足を、必死でフヒトは縫いとめた。落ちつかない、……どころじゃない。いますぐ逃げだしたい。まがまがしいほどに神聖な瞳のなかから、逃れたくてたまらない。
「フヒト。俺がこわい?」
ユイは、獰猛な獣のように眼を細めて、おびえるフヒトを見据えつづける。
これが、[破戒者]? ……いいや、ちがう。それだけじゃない。右眼を覆い隠していた布と同様に、右眼そのものも、彼女にとって異物だった。
――あれは、あそこにあるべきものじゃなかった。
かつてのメイが、[長庚]が目にしたという異物は、これか。この瞳か。
――あんなモノはもうヒトじゃない。ただの――。
ただの。
「ねぇ、フヒト。リヴが、きみよりもずっと俺を知っているように、俺は、きみよりも遥かに彼を知っている」
ユイは笑う。異端の瞳をさらしながら、異端のモノは、笑いつづける。
「っ……ならば!」
フヒトは、なけなしの勇気をふりしぼって、声をあげる。
「ならば、教えてください。ユ=イヲン! あなたたちの過去になにがあったのか。リヴさまは、なにを背負い、その事実をなぜ闇に葬りさったのか……!」
いまのフヒトにできるのは、ただ、声をあげることだけだ。ただ、貪欲に求めることだけだ。
「しりたいの? 救いにもならない遠いできごとを。しったところでなにも変わらない。きみは、わかっているのに。それでも求めるの?」
ユ=イヲンは、表情を消して、ぽつりとつぶやいた。
「……そう」
月白の瞳がまたたいて、ぐにゃり、とセカイが曲がりはじめた。
『ダイス』か、と身構えるも、予想したノイズは湧いてこない。代わりに、深い深い海の底に、沈められていくような、この感覚は。
しっている。しらないけれど、しっている。
「なにが……?」
しっているはずなのに、しらない。こんな『記録』は、しらない。こんな【参照】は、しらない。
これは、【自己参照】では、ない――。
「わけがわからないって顔してるね……教えてあげるよ。それは、俺自身だからだ。[史記]の記録は[破戒者]を知りえないけれど、俺自身は俺を知っている」
まだ、『記録』に沈みきらないフヒトのもとへ、どこか遠くからユ=イヲンの声が届く。
「きみの権限を借りうけた。正規の方法ではなく、根こそぎ奪うように複製して、俺自身の権限とした……その上で、俺自身を【参照】させているんだよ。きみから奪った権限を、きみに貸しつけてね」
遠ざかる。音が、セカイが、遠ざかる。
【参照】とは、『記録』とは、こういうものか。
遠く離れた場所に、意識だけがさらわれていく。波の下深くもぐりながら、まだ、細い糸でつながっている。
全方位の画像。全方位の音声。感情。思考。気を抜けば丸呑みにされそうな、とんでもない量の情報が、望んでもいないのに差しだされる。
断ち切らなければ。選ばなければ。
拒み、求め、探せ――。
できるはずだろう。なんのために、お前は『フヒト』でいるのだ。
フヒトは覚悟を決めて、自ら、深度を変える。もっと奥へ。もっと、もっと。簡単に手が届くような場所に、ユ=イヲンが、機密を置くはずがない。
「変わるもの、変わらぬもの。選ぶ権利などない。望む理由などない。それでも、きみは」
そうして、最奥に横たわった『記録』の束をつかんだとき、ユイの声は、完全に途絶えた。
「おやすみ、フヒト。――悪い夢を」
奇妙なほどに優しげな声音を、置きのこして。




