[11] 変革のとき
――アリスが、いなくなった?
フヒトはすぐさま席を立ち、身を返した。あわてるあまり、机にひざが当たって、紅茶のカップがカチャリと音をたてる。
その痛みを流す暇さえ惜しんで、外へ飛びだしていこうとした少年を、エマは、みじかく糾弾した。
「そなたがいって、なんとする」
なににもなるまいに。つづく声なき声が聞こえるようだ。エマから向けられているだろう、あきれたまなざしまで、ありありと思い浮かぶ。
戸口は、[干戈]にふさがれたまま。彼女が動くどうかはわからないが、元をたどれば、[干戈]は『闇の眷属』なのだ。エマがひとこと命じるだけで、簡単に退路は、あるいは生命までも、絶たれることだろう。
不条理なまでに格上の相手をしていたのだと、あらためて、まざまざと思いしらされながら、しかしフヒトは足を止めない。
「それでも、なにも成さないよりはいいでしょう――」
なおも進もうとしたフヒトの目前に、[干戈]が立ちふさがった。
[干戈]は戦乱。最強の矛とうたわれた、[叡魔]が誇る至上の武器。最堅の盾[守牙]と対をなす、学都にのこった『聖魔戦争』の爪痕である。
かつて、[干戈]は[叡魔]により、[守牙]は[勇聖]により、造られた。争いに決着をつけるため。遊戯に区切りをつけるため。力を集約したカタチが、【権限】をもたぬイビツな特異職たちだった。
それを、[調停者]の【宣言】が固定した。主を定める自由と義務とを、うつろな戦人形たちにあたえた。ゆえに、彼女らは、『王』に従う。自ら選びとった王に、すべてを捧げる。
齢百を数える異形の王、[叡魔]は座したまま。強いまなざしだけが、フヒトの背に痛いほどつきささっている。はたして思いすごしか否か、たしかめる勇気もない。
「分をわきまえよ、と妾は申したはずだがの」
エマは、抑揚なく告げる。
「アリスに惑わされたか、無力なる観測者よ。そなたの介入に、あれはいい顔をするまいに」
「リヴさまは関係ない!」
フヒトは叫んで、扉をふさぐ[干戈]をみつめた。
足がふるえている。こわいのか。消えることが? リヴに厭われることが? いや、なにもなせないまま、なにもわからないまま消えゆくことが、いまのフヒトにはなによりもおそろしい。
このままでは終われない、と強く願う。それが、『フヒト』の領分を越えた思いであっても。
もはや、意地だ。なぜ、こんなにも必死になっているのかわからない。それでも、なにもなさなければ、この先フヒトは後悔しつづけるという確信だけがある。それだけを支柱に、意地を張りとおす。
「僕の在り方は、僕が決める。そこをどいて、[干戈]。監査役には、対象を見届ける義務と、意志がある」
「――しかし、かなしいかな。権限がない」
そういって[干戈]の肩を引いたのは、特異棟で別れたはずの[勇聖]だった。その後ろには、彫像のようにたたずむ[守牙]の姿もみえる。
「なあ、フィーちゃん。そこの魔王は、いつも言葉が足りないんだよ。まわりくどい言いまわしばかりして、肝心なことを伝えそこなう」
くつくつと笑う、ヒジリ。
「“己が無力さを自覚しているのなら、相応のやり方というものがあろう"――くらい言えないもんかね」
「え……?」
フヒトは、ぱちりとまばたきをして、全身に張りめぐらせていた緊張の糸を解く。
「ふん、小童が」
ヒジリの視線をたどるように、振りかえったさきで、エマは、ひどく穏やかな表情を浮かべていた。あいかわらず感情の読めない紅赤の瞳を、わずかに細めて、語る。
「[史記]よ。そなたは、だれの子飼いの犬じゃ。よもや、忘れたとは言わせぬぞ――」
エマの言葉を聞き終えもしないうちに、フヒトは、[干戈]とヒジリのわきをすり抜け、[守牙]の前を駆け抜け、三位の館を飛びだしていった。
「もっとも、あれがすなおに動くとは思えぬがの」
諦観にみちたエマの声は、フヒトの耳には、入らない。




