[10] レゾンデートル
フヒトは、なにも言えずに、こぶしを握りしめた。
ぐしゃりと顔をゆがめて、長椅子に身を落とす。柔らかい座面は、細い身体をなんなく受けとめて、ぼすりと沈んだ。
「なにも、しらなかった」
琥珀色の湖面を、情けなくゆがんだ顔がただよっていた。紅茶のカップの底深く、沈んでしまえたらいいのに。
「僕は、なにも」
フヒトを庇護し、育ててくれた、学都の主は。いつでも涼しい顔をして、立ちつづけていた。フヒトにとっての[調停者]は、彼でしかありえなかった。
リヴさま。
リヴ、と呼びかける。どこからともなく現れたユ=イヲンが、呼びかける。しかたなさそうに眉をさげて、彼は重い腰を上げる。ユイ。こんどはなにをしでかした。
――彼らは、いつでも、名前じみた略称で呼びあう。定められた『言名』とはちがう、名で呼びあう。
あたりまえのように、フヒトもならって、彼をリヴさまと呼んだ。
呼びつづけてきた。その意味もわからないままに。
「どうして……なにも……!」
気づかなかった。知ろうとしなかった。彼が背負うモノを、その重さを、あたりまえのことだと信じていた。――とうの昔に、そんなアタリマエは、崩れさっていたのに。
「勘違いするでないぞ。それでも、あれは、まぎれもなく[調停者]じゃ。不完全であれど、[調停者]として生まれついた。その真理は、決してくつがえらぬ」
ひじ掛けにしなだれかかったまま、エマが言う。
「安い同情心になど、なんの価値もない。分をわきまえよ。そなたは、一風変わった役をあたえられた駒にすぎぬ。己が立場をみあやまるでないぞ、[史記]」
長いまつげに縁どられた紅赤の瞳が、容赦のない強さでフヒトを射ぬいた。
その迫力に、ハッと息をのんで、フヒトは固まる。
「妾が過去を語ったのは、ただしき軌跡を遺すため。よもや、忘れてはおるまいな」
「いえ……」
「[史記]よ。そなたの価値は、まだ見つからぬか」
エマは、フヒトを直視したまま、ゆったりと身を起こす。
「あるいは【改編】という権限の重みに、おびえたか」
ぞくり、と悪寒が走る。
エマは、無表情に、フヒトをみつめつづける。逃げ場などはないと、思いしらせるように。
「『記録』の窓口として、ただ存在するだけで満たされていた歴代の『フヒト』とは異なるのじゃ。この世に偶然など存在せぬ。そなたは、単純な書とは異なるモノとして生まれついた。わからぬのか。そこには、かならず理由があるのだと」
――あがけ、[史記]。汝が存在理由を満たせ。
ユ=イヲンの言葉が、よみがえる。彼女は、なにを見ていたのだろう。おなじセカイを、まるで異なる視点からながめて、嗤う。嗤う。嗤う。
イカれ猫。なにを考えているのかわからない。いつでも、彼女は、ただひとり別のモノを見つめていた。
まだだ。まだ、たりない。知ることがフヒトの役目だというのなら、真実を遺すことが役目だというのなら、まだ。
「エマさま、――」
腹をくくったフヒトが、そう切りだした途端。
コツン――と。緊迫した空気を割いて、ノック音が響いた。
入室の許可を待たずに、押し開かれるとびら。あわててふり向いたフヒトの視界に、無表情で直立する[干戈]の姿が映る。
「申し訳ありません。――アリスを、逃がしました」




