[4] 青虫の錯綜(2)
「左様。それこそが『アリス』の影響じゃ」
エマは、鷹揚にうなずいた。
「あれは、周辺の『理』を破壊する。【改編】に不具合が生じてはたまらぬのでな。念のため、少々隔離させてもらった」
理の破壊――。
フヒトの脳裏に、目撃してきた、数々の不可解な現象が浮かぶ。
ゆらぐ壁。
爆散した火球。
存在しない影。
霧散した落葉。
あれらは、すべて、アリスの影響?
モノによって影響の度合いがちがうのは、抵抗力のようなものが存在するからだとすれば?
「[干戈]と[守牙]を利用したのは、影響を受けにくいから……ですか?」
エマは、無言で笑みを深める。
それこそが、回答だった。
けれど、それなら、アリスは、来訪者などではないことになる。ふらりと迷い込んできた精神体とは、まるで性質がことなっている。
これでは、まるで。
はじめから、理に組み込まれていたとしか思えない――。
握りしめた拳が、ひざの上で震える。自分自身の存在におびえ、悩みつづけていた少年の姿。フヒトは、ずっとみてきた。ヘラヘラとした笑みの裏で、迷い、苦しむ、ちいさな存在を。
「しっていたんですか……はじめから。なのに、ずっと、黙認してきたんですか……?」
「リ=ヴェーダの采配じゃからの。あれの望みは、なにを差し置いても優先される」
涼しい顔をして、エマは答えた。
リ=ヴェーダの采配。そうだ、彼こそが学都の最高権力者だ。彼の意思の介在なくして、『王』の決定は行われない――。
[調停者]には、強制的に、それを変更させることのできる権限があるのだから。『王』よりも上位の存在として、理に認められているのだから。
ぐしゃりと顔をゆがめたフヒトを、エマは、顔色ひとつ変えないまま観察しつづける。
永い時を生きつづけた異形の女王にとって、いまさら心動かされることなど、存在しないのだろう。
すべては、暇つぶしの余興にすぎない。くり返される安穏な日々と、そこに混ざるほんの少しの刺激。
フヒトとて、そうだった。悟りきったフリをして、なにもかもどうでもいいことだと、切り捨てていた。
――それは、『記録』に囚われたゆえの弊害だ。
「さて。【参照】もあたわぬのであれば、口頭で述べようかの」
しきり直すように、エマが告げると、空のカップに紅茶が満ちる。手つかずのフヒトのカップも、一瞬で新しいモノに入れ代わった。
「どうして、そこまでして……だって、記録には、僕には、そんな重みはないのに」
「わからぬのか?」
「どうして書き換えを望むんです? 僕自身ならいざしらず、どうして、貴女が」
記録は、しょせん記録にすぎない。【改編】で書き換えようとも、現在が変わるわけでもない。
意味などない行為に、いまさら、よりにもよって[叡魔]が執着する意味がわからない。記録の管理者たるフヒト自身であれば、まだ、その正当性を高めようと望む動機もみつかるのに。
「妾は、そう長くはなかろう。充分に生きた。その軌跡を、正しく遺さんと望むのは、おかしなことかえ?」
めずらしく、若輩者を見守るような優しいまなざしを向けて、齢数百歳の少女は笑んだ。
「軌跡、を?」
鼻白んだフヒトの全身から、力が抜ける。
「そなたが、真に刻み遺したいと願うモノがみつかったのならば、記録の意義を疑うことなどあるまい」
「……義務ではなく、ですか」
「いずれわかろう」
紅茶を片手に告げて、エマは、姿勢を崩した。肘掛けにしなだれかかった体勢をとった美少女が、フヒトを覗きこむ。その拍子に、長い柔髪が、滝のように流れおちた。
「楽にするがよい。妾の昔話は、いささか長いゆえの――」




