[7] 嵐の後
まるで意味をなさない視覚に、早々にみきりをつけたフヒトが、つぎにその眼を開けたとき、学都は元どおりの秩序を取りもどしていた。
うってかわって、見なれた風景が目のまえに広がる。
(学園……それも監査棟の屋上じゃないか)
なんの気まぐれかユ=イヲンは、整然とした再構成をなしたうえで、わざわざフヒト本来の生活圏にまで送りとどけてみせたらしい。
二階だてのこじんまりとした棟は、フヒトたち監査議員の根城である。学園のなかでもひどく奥まった場所に位置しているため、めったに人は寄りつかない。
他者とのつきあいが苦手なフヒトにとって、もっとも落ちつく空間だ。
申しわけ程度に設置された柵にもたれ、フヒトは地理情報を【参照】する。
そうしてまもなく、それがユ=イヲンが『ダイス』をおこないはじめる前、まだ正確に区画されていたころの配置と、寸分たがわないことに気づいた。
「なに考えてるの、イカれ猫」
あいかわらず、理解不能だ。釈然としないままボヤいたフヒトは、ふと見おろした先の地上に、リヴの姿をとらえた。
――送り届けられたのは、なにも自分だけではないらしい。
駆けあしで螺旋状の外階段をくだるフヒトの脳裏に、やかましい金色の小動物の姿が、浮かんできえた。
(アリスは、いないか)
僕には関係ないけど。でも。
屈託なく笑う、すこしだけ頭が弱い少年。出会い頭に向けられた、裏表のない、おそろしいほどまっすぐな信頼。……そして先ほどの、不自然な沈黙。
フヒトのなかに、もやもやとしたいらだちが溜まっていく。湧きあがる感情の意味がわからない。
ただ、どうしようもなく不愉快だった。
「フヒト」
「リヴ、さま」
複雑にゆがんだ表情で駆けよるフヒトを、リヴは苦笑を浮かべながらむかえた。
衣ずれの音をたてながら、優美な所作で右腕が伸ばされる。一回り大きなてのひらが、なだめるように数回、フヒトの頭上に落とされた。
「『異分子』――来訪者になるのか。彼は無事だ。お前が言わんとしていたのは、あの子のことだろう」
「アリスは、いま」
「近くにいる。ユイがそう飛ばしたようだな」
わざと、ほんの少しだけ離れた地点にもどしたのだろう、とリヴは言う。
「くわしい事情が知りたい。協力してくれるな、[史記]」
「――ええ」
一も二もなく、うなずく。それこそが、フヒトの存在意義に他ならないのだから。敬愛する[調停者]を読み手とするのに、いかなるためらいもあろうはずがない。
「そうか。ならば、来訪者をむかえにいくとしよう」
告げるやいなや、すばやく身をかえしたリヴの背中に、先ほどのユ=イヲンとのやりとりの名残は、みじんも感じられない。
迅速な頭の切りかえも、その刹那での最善を選びとる判断力も、フヒトの尊敬する[調停者]の持ち味である。
もっとも、本気で気にしていないのか、あるいはそう見せかけているのかまでは、フヒトには判別がつかない。
あの程度、日常会話だと言われてしまえばそれまでのこと。
実際、あのイカれ猫相手であれば別段不思議ではないあたりが、頭の痛いところだった。
――それでも、と、フヒトは思う。
(さっきのユ=イヲンは、なにかおかしかった)
それが一体なにかなどは、普段から彼のごく一部の側面しか見ることのないフヒトには、あずかり知らぬことである。




