[3] 青虫の錯綜(1)
しばらくの間、おこなっていなかったとはいえ、【自己参照】は、フヒトにとって特別な行為ではない。
他者を『鍵』とし、膨大な『記録』のなかから、望むものを絞りだす。その作業領域を、自己の内部に取るだけのこと。
ただし、【改編】となると話は別だ。前例もなく、フヒト自身も用いたことのない、未知の権限である。
直感的に理解してはいる。【自己参照】を前提とした記録の更新――リ=ヴェーダが懸念した、[史記]の領分を超えかねない権限だと。
(でも、やるしかない)
ここでフヒトが拒絶したところで、[叡魔]には、それを強制する権利がある。
いずれの眷属であれ、『王』の支配下にあることには変わりない。直接戴くヒジリほどの拘束力はなくとも、特異職ひとり従わせることくらい、造作もないはずだ。
腹をくくったフヒトは、目をつぶり、ゆっくりと意識を沈めていく。エマの気配を探り、つながりを保ちながら、すこしずつ、すこしずつ、深くへと。
――扉。
そう、扉だ。記録へつながる、おおきな扉。堅牢な両開きの大扉は、錠もないのにしっかりと閉ざされている。
色のない空間に、扉だけが尊大に座す。
広々とした、壁のない大広間。その中心に、古びた扉がある。いつか、ユ=イヲンが[破戒]した、その扉だ。
このたった一枚が、フヒトという個と、記録の海を、隔てている。
強健なる想像を。押し流されてしまわぬように。
自己という定義を組みあげてさえいれば、記録に直接干渉したところで、もとのカタチを見失わずにいられる。
長居することは好ましくないが、畏れ多くも[叡魔]を鍵とするのだ。おそろしく長寿な彼女の生となれば、その情報量は膨大なものとなるだろう。慎重さに越したことはない。
あやまれば、破綻するのはフヒト自身。
フヒトは、意識のなかで呼吸を整えて、【参照領域】を隔てる扉へと手をのばした。触れる。『壁』のように感触のない、境界に。
まずは、[叡魔]から預けられた情報を手がかりに、奥から記録を引きだして――。
パチリ、と目を開いたフヒトは、呆然とつぶやく。
「さ、んしょう……できない?」
感じたのは、拒絶。いまだかつてない感覚にとまどううちに、あっというまに【領域】外へと弾きとばされた。
なにが起こったのか理解できないフヒトは、あっけにとられたまま、揺れる紅茶のカップを見下ろした。
「やはりな」
見上げた先で、[叡魔]は、ひとり納得したようにうなずいていた。
「わかって、らしたんですか?」
「推測にすぎぬがの」
エマは、無表情に、動揺するフヒトをながめつづける。
「記録は、そなたの根元。それを疑うモノに、【参照】などできまい」
「記録を、疑う……」
心あたりは、痛いほどにあった。
『記録』の精密性を疑い、自己の定義に惑う[史記]は、――もはや[史記]たることができないのだろうか。
つまりは。
「僕は、[史記]の定義から、外れてしまった……?」




