[29] 感傷にゆれる平行線
監査棟の屋上で、リ=ヴェーダは、天をみつめていた。激しいせめぎあいは、なりをひそめ、いまはただ穏やかな蒼穹が広がるのみ。
香木の香りが鼻孔をくすぐる。年季の入った柵をなでるリ=ヴェーダの手もとに、ふと、影が落ちた。
「――いい表情をするようになったね、フヒト」
「唐突に、なにを言いだすんだ」
どこからともなくあらわれた友に、リ=ヴェーダは、うんざりとした声で応じた。
くすり、とのどを震わせたユ=イヲンは、不安定な柵の上へ、ひらりと飛びのる。
「ねぇ、リヴ。楽しみに待ってるといいよ。きっと、あと少しだから。あと少しで、きみは、解放される」
「どういう意味だ」
「すぐにわかるよ。わからないかな。わからないかも」
あちらへ、ふらり。こちらへ、ふらり。踊るように足を運びながら、ユ=イヲンは、クスクスと笑う。
「だって俺はチガウから。キミタチのことなんてわからない。俺は俺の役割を果たすだけだよ」
「それは義務か? 望みでは、ないんだな」
リ=ヴェーダの問いに、すぐさまユ=イヲンは答えた。
「俺は望まない。望めない。俺は、俺でしかあり得ない」
「……そうか」
「ふふ。ありがとう。きみの、下手な慰めを言わないところ、気に入ってるよ」
ぴたり、と足を止めたユ=イヲンが、香木の上に、立ちつくす。風をはらんだ黒衣が、ばさりと膨らんで、ちいさな影を強調した。
「義務では、ないんだ……俺の選べる、たった一つの選択肢。だから俺は、迷わない」
「迷えないっていうんだろう、それは」
「そうかな? うん。でも、俺は、迷うことはないだろうね。もし、ただ一つの選択肢を奪われたら、そのときは」
いちど息を止めて、ユ=イヲンは、かぶりを振った。
「――ねえリヴ。きみはそのままでいい。そのままでいいから」
柵の上から、身を乗りだして、リ=ヴェーダの瞳をとらえる。
「奪わないで」
ほどけかかった闇色の布地が、とうとう外れて、風に舞っていく。色の異なる両目が、痛ましいほど、まっすぐに、リ=ヴェーダをみつめる。
ため息を吐いて、リ=ヴェーダは、その視線をそらした。わかっていた。ユイの真意など、とうの昔に。
「いい加減に、俺を口実にしてごまかすのはやめろ」
「ごまかす? 俺が、いったいなにをごまかしたっていうの? それはきみだ、リヴ。目の前のものから目をそらして、責任ごと【権限】を投げた」
「……そうだな。俺もまた、ごまかしつづけてきた」
リ=ヴェーダの口もとに、自嘲がうかぶ。
「リヴ?」
「お前は、ただ、終わらせたいだけだ。あのときからなにも変わらない。いや、それも仕方のないことか。どれだけ時を重ねようが……この世界そのものが変質していないのだから」
目をつぶりつづけてきた。長い間、変質しない世に甘えて。ようやく落ちついた水面を、二度と揺らすものかと、己を戒めた。
波紋は、消えない。
いつまでも、変わることのない日常が、ゆるやかに首をしめてくる。浅はかな己のあやまちを、際限なく突きつけられているようだった。
「もう、いいだろう」
しぼりだすように告げた声は、思いのほか、感傷にまみれていた。
「お前は、俺をみない。イフェンの残滓ばかりを追いかけて、自分自身さえみつめようとしない。適当な口実をみつくろっては、イフェンが望んだとおりの絶対者であろうとする」
互いに、十分、逃げた。終わらせてやりたい。哀れなこの異端児を、解放してやれるものなら、そうしてやりたいと思う。
「ユイ。……フェンは、いない。あの男は、『神』をしたてあげるために、自ら望んで消えた。やつの理想にお前が縛られる理由はない」
「――ちがう!」
ヒステリックな叫びをあげて、ユ=イヲンは、両手で耳をふさいだ。
「ちがう、ちがう、ちがう! 俺は……俺は、望まない。望めない。だって、俺は、ユ=イヲンだ。俺は俺でしかない。俺でしかありえない。だから俺は」
――『俺』でなければならない。
「構わない。お前が真に望むのなら、そうすればいい」
「……うそつき」
つぶやいて、ユ=イヲンは、身を返した。
香木を蹴り、監査棟の屋上から飛びおりる背中を、リ=ヴェーダは、ただ黙して見送っていた。
「お前の【権限】が絶対だなんて、それは嘘だ――俺自身と、おなじように」
ささやく声は、彼女には、届かない。
「お前が、言ったんだろう……? ユイ」
第四話*観測者と『例外』 〈了〉




