[25] エスカピズム
とり残されたフヒトは、しばらく、ぼうぜんとしたまま突っ立っていた。あまりの怒涛のできごとに、つかの間、頭が考えることを放棄しだしていた。
きっと、このまますべて投げだしてしまえたら、楽になれる。予定調和は戻るだろう。気づいてしまったすべてを、ていねいにしまい直して、心をそらせたら。
――でも、それでは、だめなのだ。
それができないから、フヒトは、知ることを望み、約束された平穏を投げだした。目を逸らすことが、できないから。まぶたを上げたまま、目をつむりつづけるのは、もうごめんだ。
逃げられはしない。
――アリスのようには。
まずは、フォローをしなくては。フヒトは、腹をくくって、となりに立つアリスをみた。
きっと、ショックを受けている。また、逃避しようとする。――そうにちがいない、と思っていた。思いこんでいた。
勝手に。
「あり、す……」
だから、フヒトは、面食らったのだ。
「どうしてきみは、笑うの?」
問う声は、震えていた。
どうして。なぜ。わからない。理解ができない。いったい。
(僕は、アリスのなにを、理解していた?)
積み重なった違和感が、目をそらし続けた特異点が、とつぜん甦って、フヒトをさいなませた。
アリスは、笑っていた。
顔面をつかった無邪気な大笑いではなく、まるで、ユ=イヲンのような、艶然とした笑みを浮かべていた。
――わからない。
フヒトの視線に気づいたアリスが、ぱちり、と目をまたたかせる。一瞬のできごと。あらためて目をひらいたそのときには、元どおりの、純真無垢な少年ができあがっていた。
「ソウ、だっけ? アカリの兄ちゃんに、伝えてやらないとな」
へらり、浮かべる笑顔は、いつもとおなじ。
「……フヒト?」
尋ねる声のトーンも、かしげた首の角度も、距離感も。すべてが、おなじ、なのに。
一連を見届けてしまったフヒトは、とっさに、声が出せなかった。
「あ、え……」
「なんだよ、ソウってアカリの兄ちゃんなんだろ?」
「いや、双子は双子で、兄弟では、ない……けど」
「でも、つまり心配してたんだろ? あいつ」
「ああ、うん。……まあ、それは」
「だーかーらー」
歯切れのわるい返答をするフヒトに、アリスは業を煮やして足踏みした。うすい履物で、硬い石床を、だんだんと打ち鳴らす。――顔色ひとつ、変えないまま。
その様子をみながら、フヒトは、ひとつの仮説を思い浮かべた。
ひょっとして、アリスは。
(流すのが苦手なんじゃなくて、流せない――?)
それは、つまり、どういうことなのだろう。
影響を受けない? アリスは、いままでなんども、痛がったり、まぶしがったりしてきているのに?
いままでの経験と照らしあわせて、フヒトは、首をひねる。
「もう用事は終わったんだから、帰ろうぜ」
「そう、だね」
さっさと部屋を飛びだしていってしまったアリスの背中を、フヒトは、ぼんやりとみつめる。
痛み。まぶしさ。――副次的な影響。流すことのできるもの。
打撃。光。――直接的な影響。流すことのできないもの。
影と、その感触。両方にまたがる、境界線上の――。
消えた熱球。消えた影。消えた木の葉。
ちらばるピースが、ゆっくりと形をなしていく。
(アリスが、触れたものは――?)
破壊、されている?
ぞくり、と寒気がはしる。フヒトは、無意識に身体をかきだいていた。
ならば、なんどもアリスの手をとった、フヒト自身はなんだというのだ。
「……考えるな」
まだ、決まったわけじゃない。不穏な想像をうちはらい、フヒトは、アリスを追って戸口をぬけた。




