[19] 最初の異端児(2)
ヒジリが、長い足を組みかえて、ゆったりと息を吐く。かすれた音を聞いて、口もとに手をあてて思想にふけっていたフヒトは、はたと顔をあげた。
隣で机につっぷしはじめたアリスには目もくれず、紅玉は静かにまたたいていた。ためらうような、少しの間。それからようやく、[勇聖]は口を開いた。
「イフェンは[破戒者]の兄だ」
「あに、……ですか?」
親子でも、双子でもなく。ヒジリは、兄と明言した。
学都に、来訪者が語るような『血縁』は存在しない。同一の真音を継げば親子。同一の瞬間に生じれば双子。
では、なにをもってして、『兄弟』というのか?
そも、学都においてそのような関係性は生じえるのか。無表情をよそおいながら、わずかに眉をひそめたフヒトの変化を、ヒジリは見逃さなかった。
「信じられないならやめるか?」
「いえ、……」
「まあ、無理もない。俺も、キョウダイなんて関係が成りたった事例は他に知らないしね」
口ごもるフヒトに肩をすくませて、ヒジリは唇をゆがめる。意地悪く小馬鹿にするような持ちあげ方は、この王の十八番だ。
気にしていてはキリがない。腹の虫をおさえながら、フヒトは黙ってつづきを待つと決めた。
――しかし、ここで黙していられないのが、もうひとり。
「兄弟……? ユイに、兄貴がいるのか?」
がばり、と身を起こしたアリスは、その勢いのまま立ちあがってヒジリへと詰めよった。衝撃で椅子が倒れる。古びた木材が石の床を打って、室内に大きく反響した。
つづく怒声を予想して、フヒトは、ひそかに身構える。
「いない」
非礼をとがめるどころかアリスを一瞥さえしないまま、ヒジリは応じた。深緋の瞳がとらえるのは、目前に座するフヒトのみである。
落ちついているようにも、無関心なようにもみえる、そのまなざし。あるいは、――試されて、いるのか。
「なんでだよ? だって、いま、兄弟がどうって」
「イフェンは存在しない。仮に、その存在を認めたとしても、過去の話……奴はとっくに消えている」
ヒジリの語り口は、とても淡々としていた。つとめて冷静に、事実をならべたてていくような。
――存在しない、という言いまわし。
ユ=イヲンからも、その言葉を聞いた。[史記]こそが歴史。そう断言することで、記録としてあつかえないモノの存在を、彼女はまとめて否定した。
「アリス、まだ話の途中だよ」
不満げなアリスに着席をうながすと、フヒトは、慎重に問いかける。
「[史記]の記録上に存在しないということは、『現在』から【参照】する術がない、いわば失われた情報――そういうことですね」
言葉をあやまるな。――[勇聖]の瞳は、まだ、フヒトの価値を推しはかっているのだから。
ヒジリの目もとがやわらぐ。しかし、作り物だ。優しげな仮面を演出しているだけの、空虚な表情。もちろん、そうと見抜かれることさえ計算したうえの。
……まったく、性質がわるい。
「すなわち、お前は『過去』に干渉しえる唯一の媒体、というわけだ」
予想外の切りかえしをうけて、フヒトの表情はこわばった。
過去への干渉? フヒトに、【改編】に関わる発言をした覚えはない。ただ一般的な、歴代の[史記]に共通する概念をもとに語ったつもりだった。
(そう……とらえるなんて)
まちがっている、とは言えない。否定できないことが、フヒトにとっては、なにより衝撃的だった。
過ぎさったできごと。現在にいたる過程。裏づけになりえるのは、たしかに[史記]の記録のみ。たとえそれが不完全であっても、完全な歴史を、他のナニモノも定義できないのだ。
――[史記]こそが歴史。ユ=イヲンは、どんな思いで、それを告げたのだろう?
すくむフヒトを鼻で笑って、ヒジリは話題をきりかえる。
「さて、異端とは、ナニモノか? なぜ生まれ、なぜ消えたのか?」
ヒジリはそこで、はじめて隣席に座るアリスの姿を視野に入れた。不躾に観察され、居心地わるげにアリスがたじろぐ。それからまた、フヒトに視線がもどされて、一呼吸。
そうして放たれたヒジリの言葉に、こんどこそ、フヒトは度肝をぬかれた。
「イフェンは、来訪者と[寒月]のあいだに生まれた、まったく新しい『特異職』だった」




