[17] 謁見(3)
書物など、とんでもない。[史記]は、れっきとした記録者だ。あるいは、観測者とでも言えばよいのか。
【参照】と【改変】。[史記]が有する権限はそれだけだ。フヒトもまた、それをもっている。まして他者に貸し与えるのみならず、自分自身がふるう権限として、もっている。
時の管理者。
――『史実』の裁定者。
(だけど、なら、僕の存在理由は……)
どこにあるというのだろう。学都における唯一の記録媒体。過ぎさった時を示す、ただひとつのモノ。絶対的な真実である、という保証がそこにないのなら、誰が記録を求めるというのか。
――誰にも求められない記録に、なんの意味があるというのか。
無価値だ、とフヒトは思う。フヒト自身にとってさえ、その存在は無価値だ。けれど[勇聖]は、価値があるのだと言う。
それはひとえに、[調停者]の評価によるものだ。
絶対者たるモノの手もとにあってはじめて、唯一無二の価値を得る。リ=ヴェーダが認める。それだけで、不安定なフヒトの存在意義は満たされる。彼の管理下におかれることによって、『記録』は、その評価を得る。
フヒトは常に、リヴの庇護下にいた。[史記]が絶対のものとしていられたのは、リヴの存在が、その評価が、大前提としてあったからだ。
ならば。フヒトは、なにを返せるだろう。
孤高の絶対者に、いったい、なにを。
……報いたいと思った。
この存在に理由があるというのなら、それを満たしたいと。
リ=ヴェーダが守りつづけてきたこの地を、変化が襲うというのなら。それをつきとめ、彼の沙汰を助けるのが、フヒトの務めだ。そうありたいと、願う。
そのためには、どんな糸口でも見落とすわけにはいかない。みっともなくすがりついてでも。
深々と頭を下げつづけるフヒトに、誰もが言葉を失っていた。アリスさえもが息をのんで、ことの行く末を見守っている。
――静寂の場に、笑い声が落ちた。
のどを震わせたような、低く控えめな声。ヒジリだ。光の眷属を束ねる王は、軽薄さの欠片もない、堅苦しい口上を述べる。
「学都にあるモノとして、か。……ならば、俺は応えねばなるまい」
うかがうように顔をあげたフヒトを、ゆがんだ深緋の瞳が見下ろした。そのなかに、いたずらな輝きが浮きあがる。
「フィーちゃんの望む答えを、俺は持たない」
そう告げて、ヒジリは、いまいちど室内へと足を向けた。フヒトとアリスの横を通りすぎ、壁際に置かれた一揃いの椅子へ腰を落ちつける。
「ヒジリさま?」
一転した態度についていけず、フヒトはぽかんと口を開けて立ちつくした。
三脚の椅子に囲まれた、ちいさな丸机。およそ絢爛な衣裳をまとう[勇聖]には不似合いの、簡素なテーブルセットだ。
けれど、ヒジリがそこにいるという事実だけで、途端に場が華やぐ。彼の前では、有象無象の背景など、さしたる意味をもってはいなかった。
鮮烈な光のような男。ときに味方を鼓舞し、ときに敵方を萎縮させる。つかみどころがなく飄々としていて、まるで遠さを感じさせないのに、圧倒的な隔たりは消えない。
腕を組み、背もたれに体重をあずけたヒジリは、向かいの二脚をあごで示し、言う。
「座れ。――その上で問うのなら、応じよう。それもまた王の務めだ」
ふたり顔を見合わせたフヒトの腕を、アリスが引く。
「よくわかんねーけど、行こうぜ」
「あ、……うん」
強引に導かれるまま足を踏みだすフヒトの姿を、愉悦にゆがんだヒジリのまなざしが追っていた。威圧感は消えない。
萎縮しそうになる身体に喝をいれ、一歩一歩、前へ進む。こういうときに限れば、後先を考えないアリスの無鉄砲さが、うらやましく思えもする。
(ここで怯むわけには、いかない)
ひとりなら、ここまでくることはできなかった。こようとさえ、しなかっただろう。
――アリスがいる。ひとりではなにもできない無力な少年に、救われている。
進むことはおそろしい。けれど、ひとりではないから、きっと立ち止まらずにいられるだろう。
そうしてフヒトは、アリスとともに対話の席へついた。




