[9] 王と眷属(1)
森に消えたヒジリの後を追うような形で、フヒトは黙々と足を進めていた。学都で最も高い建物である、別棟へ。
本棟の裏手に広がる森。その中心に隠れ家的に存在する監査棟から、東へぬけた先にある、特異職のすみか。
濃密な影の中でも、その細長いシルエットは、ひときわ目をひく。
「うわ!」
どさ、と鈍い音がする。
(……またか)
頬をひきつらせたフヒトは、嫌々足をとめて振りかえった。
「どうしてきみは、いちいち木の根にひっかかるの」
「知るかよ、好きで転んでるんじゃねーし」
不機嫌にくちびるを突きだしたアリスが、がばりと身をおこす。
両わきを、背の高い木々に囲まれた小径だ。うねった木の根があちこちをはっている。
誰も管理していないのだから、当然といえば当然だった。監査棟から別棟へ向かう者など、ほとんどいない。
「よく、こんな視界が悪いなかで動けるよな。なんでひっかかんねーの」
「僕?」
「フヒトだって、ずっとひきこもってたくせに」
闇の眷属以外は、基本的に『影』の間に出歩かない。ひんやりとした大気が性にあわないこともあるが、ほとんどのモノはそういう習慣だから外にでないのだ。
特に、ここ十年間の[長庚]の不在で、光の眷属からは『影』という観念がすっかり消えてしまっていた。
そもそも、それがなくともフヒトはめったに出歩かないのだけれど、そのあたりは関係ないらしい。
アリスと目をあわせながら、フヒトは肩をすくませた。
「普段と大差ないでしょ。みえないわけじゃないんだし」
容易には流せない『影』ではあるけれど、副次的な影響を最小限にとどめることはできる。
要するにそうやってある程度の視界を確保しているのだが、フヒトにわざわざそんな説明をする気力はなかった。
「だけど、……って、待てよ、フヒト!」
アリスの返答を待たずに、さっさと先へ進みだす。背後からキャンキャンとさわぐ声が聞こえたが、フヒトは素知らぬふりを貫いた。
さして広くもない学都であるから、森をこえるのにたいした時間はかからない。足手まといさえいなければ、それこそあっという間についただろう。
(それにしても……)
直接、『影』に触れられないアリスも、その影響は受けるらしい。それがなにを意味するのか、フヒトにはわからない。
難しい顔で考えこんでいたフヒトは、前ぶれなく巻きおこった風に進路を阻まれ、ピタリと足をとめた。猛々しい旋風が、フヒトの髪をさらっていった。
アリスの声が聞こえない。ということは、この風は極地的なものか。
「……[風織]?」
いぶかしげにつぶやいたフヒトの前に、青銀色の長髪がひるがえった。
風の中心へ、音もなくふわりと着地した青年が、キッとフヒトをにらむ。空色のまなざしは、いつになく鋭く険を帯びていた。
「いまさら、なにをしにきた。観測者」
ゆっくりと口を開いたソウを取りまくように風が収束し、やがて消える。木の葉一つ巻きあげることもないまま、森は普段の落ちつきを取りもどした。
仮にも『名持ち』に言うことではないが、見ごとな制御だった。他に一切の影響をおよぼさない【権限】の行使というのは、存外難しい。
そういえば、この双子――当代の[風織]と[焔灯]は、年若さに比して、かなり優秀なのだという。いつだったか、誇らしげにリヴが語っていたことを、フヒトは思いだした。
「どういう意味かな、ソウ」
「立ちされ。お前の出る幕はない」
「……どういう意味だって聞いてるんだけど」
取りつく島もないソウの言いまわしに、温厚なフヒトもいささかいらだった。
アリスが現れてからといったもの、無関心でばかりいられなくなって困る。これだけの感情の起伏が自身に備わっていたこと自体、フヒトには驚きだった。
知ったつもりだった。なにもかも、『知ろうと思えば知れる』というそれだけで片づけていた。
なんにでも首をつっこみたがる来訪者のせいで、いままで見向きもしなかったことが新鮮に感じるようになった。
すべてを知っているという考えが、とんでもない驕りであったことを、思いしらされた。
その変化が、歓迎すべきものなのかどうかは、わからないけれど。少なくとも、いまのフヒトにとっては、アリスの存在は決してマイナスのものではなくなっていた。
――あるいはそれさえも、望ましくない変化であるのかもしれないのだけれど。




