[8] 悪寒(2)
「外? って、一体、どこに」
「……いこう」
「ちょ、おい、フヒト!」
とまどうアリスを強引に連れて、監査棟の扉を押しひらく。
ひやり、とした外気の感触は、『影』の影響によるものだ。肌に染みいるそれは、柔らかくも冷たい。
長らく感じていなかった気配に、フヒトは少しひるんだ。
(濃密な……『影』だ)
異形の王、[叡魔]にささぐ癒し。[長庚]がもたらす『影』は、闇の眷属に、得難い安らぎを与える。
しかし、ヒジリから直々に、『厳密に言えば光の眷属』と断じられたフヒトにとっては、落ち着かない空間だった。
はじまりは、違ったのかもしれない。
けれど、いまでは、光の眷属と闇の眷属は、まるで別の種族だ。
『言名』は、明確に両者を仕分けする。
信奉する王が違う。安らぎを得る状況が違う。そういうものとして、生まれつく。見た目に区別がつかずとも。
「うわー、なんだこれ」
アリスが、目の前の空間に両腕を差しだす。こぶしを、ひらいては閉じ、たしかめるようになんども手を動かした。
「『影』って、……触れ……」
「密度が高すぎて、流せないんだ。建物やヒトには劣るけど、でも、【権限】で生みだされるものとしては最高峰。[焔灯]の光が熱をはらむように、[長庚]の影は冷気を持ってる」
「えっーと?」
「……感触だけで影響はされないから気にしなくていいよ」
フヒトは、早々に説明を投げた。
――このあたりは、学都に存在してきたモノでなければ、なじみがない感覚だろう。理解しろと言うほうが無茶だ。
どうせ、影響はない。精神的なものをのぞいては。こればかりは受けとめ方の問題だから、簡単に解消できるものでもない。
「いや、そうじゃなくってさ」
アリスが、フヒトの腕をつかんだ。
――その瞬間、ぞわり、と悪寒が走る。
思わず振りほどきそうになって、すんでのところで、フヒトはこらえた。
「フヒト?」
きょとん、と邪気のない瞳を向けるアリスに、フヒトは言葉を返せなかった。
「どう、……して……」
声が震える。なぜ。頭のなかを、無数の疑問符が飛びかっていた。
フヒトは、自らの腕をつかむアリスの細い手指を、ぼうぜんと見下ろした。
……そこには、そこだけには、有るべき感触が、ない。
「なんで、きみの周りには『影』が無いの」
アリスの手をとりまく、ほんのすこしの空間。ごくわずかな層だけが、不自然に自然体だった。
高密度な『影』特有の、ぬめるようにまとわりつく泥のような感触が、途切れている。
まるで、そこになにかの境界が存在するかのように、ぱったりと。
「なんだよ? 『影』、って、触れないものなのか?」
「違う。いや、違わない、けど、でも……」
しどろもどろに答えながら、フヒトは、混乱していた。
本来の『影』は、触れないもの。だけど、いまの『影』は、触ったような感覚を与えるもの。でもアリスの周りには、それがない。
「よくわかんねーけど、いくなら早くいこうぜ」
つかまれたままの腕を、勢いよく引かれて、フヒトは軽くつんのめる。
「アリス!」
「ごめんごめん。で、どこいくんだっけ?」
アリスの問いに、すこし考えてから、フヒトは答えた。
「……特異棟」
ユ=イヲンを、こちらから見つけることは難しい。まずは、白兎を追いかけて――すべては、それからだ。
(考える。僕自身の目で、見極める)
学都DiCeに、なにが起こっているのか。
変化は、受け身のままでは掴めない。『知っていること』が[史記]の存在意義だというのなら、知りにいくまでだ。
「アカリとメイに、会いにいこう」
反目しあう[焔灯]と[長庚]の姿が、浮かんで消えた。




