[7] 悪寒(1)
敬愛する[調停者]に、警戒されている。いまさらながら自覚したフヒトは、なんとも言えず複雑な気分だった。
――信頼してほしいと願うのは、傲慢なのだろう。
事実、フヒトは言いつけにそむいて、たびたび【自己参照】をおこなってきた。リヴもまた、それを承知している。
バランスキーパーという立場上、不穏な因子を見過ごすことができないということも、理屈としては理解できる。
……けれど。
[史記]の扱う情報は、過去のものにすぎない。
それにさえ、『例外』という穴を許す。これから起こること、いま現在の異変にいたっては干渉することさえ許されず、指をくわえてみていることしかできない。
(こんなにも、……無力なのに)
皮肉に口の端をつり上げたフヒトに、アリスが首をかしげる。
「フヒト?」
「……なんでもない」
卑屈になっている場合では、ないのだ。
三位たるヒジリが重い腰を上げるほどの、なにかが起こっているらしい。
とてつもない異変であるべき『なにか』が、フヒトにさえ悟られず、水面下で進行している。
――そしてヒジリは、それが学都の崩壊を招くとまで、言ったのだ。
明かりとり用のちいさな小窓から差しこんでいた光が、フッと消える。
巨大な暗黒色の幕が空をおおった。学都全体を侵食し、光という光を喰らいつくしていく、闇色のもや。
「うわ、またかよ!」
黒真珠の鏡が、それた。いらだたしげに立ち上がったアリスが、散乱する過去の遺物に乗り上げながら、移動する。
壁際の山へよじ登る背中を目で追いながら、フヒトは溜息をついた。
単純に切りかえが早いのか、それともまた、仮面を被っているのか。
いまだに、来訪者のことはよくわからない。喜怒哀楽に満ちた、観察していて飽きない存在だとは、思う。
つぎつぎになぎ倒されるガラクタがどうなろうが、フヒトは構わない。ただ、気になるのは。
「メイ……」
――36度目の、『影』が差す。
小さな身体で、限度を超えた【権限】を行使しつづける少女を思い、フヒトは顔を歪ませた。
「きみは、また消えるつもりなの……?」
今代のなかで唯一、影を呼ぶだけの権限を与えられた[長庚]。彼女は、どうして消されたのだろう。
ユ=イヲンの逆鱗に触れて、コワされた。
……本当に?
フヒトが知っているのは、かつてのメイは――『先代の[長庚]は、ユ=イヲンの逆鱗に触れた』という事実のみだ。
その因果関係など、知らない。
たとえば、リヴであったのなら、この行動には必ず裏づけがある。
彼が【宣言】を行使するとしたら、そうしなければならないほどに、どうしようもなく学都が乱れたときだ。
乱れを正すためだけに、[調停者]は【権限】をふるい、なんらかの形で不穏因子をとりのぞく。
フヒトの知るリ=ヴェーダとは、そういう男だ。必要にせまられれば、必ず彼はそうする。それまでの過程で、どれだけ迷おうとも、きっと。
けれど、[破戒者]は違う。
あれは、気まぐれに学都のいたるところをコワす。致命的でない場所を、ヒトを、好き勝手に書き換えている。
アリスがきてからは、来訪者にばかり粘着して、ほかに手出しをしていなかった。それもいつまで続くかわからない。
それに……、それに?
(最後に、ユ=イヲンをみたのは、いつだっけ)
フヒトの背中を、冷たい汗が伝った。全身が、言い知れない悪寒にざわめく。
――そうだ。ユ=イヲンは待っていた。アリスにつきまといながら、待っていた。
ひそやかに迫りくる崩壊のときを、彼女だけが、予見して。
「アリス、……外に、出よう」




