[6] 逃避のゆくえ(2)
浅緑のまなざしが、ゆらりとたゆたう。ゆっくりとまばたきをしたフヒトは、身をかがめて、金色の猫っ毛をかき混ぜた。
アリスの子どもじみたガードが緩む。おずおずと顔を上げた来訪者に、フヒトは微笑みかけた。
「メイが、[史記]を『時の管理者』だと呼んだのを、覚えてる?」
「え? あ、うん……そういえば、そんなこと」
「きみが学都にオちて、さっきのが35回目の影だ。でも、最近は入れかわりが激しすぎて、これじゃなんの目安にもならないね。そうだなあ。時間の流れをきみの知る単位に沿わせることはできないけど、『一年』に区切って説明することはできる。だいたい二十分の一くらいかな。それだけ、時が過ぎた。……わかる?」
がばり、とアリスが上半身を起こす。
「に、二十分の一? あー、……365÷20で、えっと、18日くらいってこと、か?」
両手をかかげて指を折り、途中でどうあがいても足りないことに気づいたのか、アリスは手を下ろした。よほど動転しているらしい。
「きみがそう思うなら」
「なんだよ、それ」
肩をすくめたフヒトは、ほこりを被った書物卓に腰を下ろした。ぎしり、と古びた木材がきしむ音がする。
「もともと、『時』っていうのは、学都には存在しなかった概念だから。目安になるものもないし、誰も気にしない。でも、[史記]だけは別だ。だから僕が、遠い昔の来訪者が伝えた単位で区切っている。きみの知るそれとおなじだという保証は、ないけれどね」
「一緒じゃねーの、たぶん。よくわかんねーけど」
「じゃあ、そういうことにしよう」
ふてくされたように頬をふくらませて、アリスはそっぽを向いた。それに、クスクスとのどを鳴らしながら、フヒトは告げる。
「ねえ、アリス。そうやって、聞けばいいんだ。わからないことから逃げる前に、僕に問えばいい。きみの目の前にいるのは、[史記]だ。どうしてリヴさまが僕をきみにつけたのか、わかってなかったんだね」
どうせ、理解などできやしない、わからないなら知らなくてもいい――と、説明しなかったフヒト自身にも非はある。
「きみがわからないこと。他の誰とも共有できないとまどい。すべてじゃないけれど、僕にはわかるんだよ。たしかに、このセカイの存在はきみの価値観を理解できないけど、そのなかで[史記]だけは、知っている」
[史記]、とはすなわちそういうものである。
あるいは先達は異なっていたのかもしれないが、少なくとも今代、いまここに存在する『フヒト』は、そうだ。
「それ、って……」
「僕は、きみの保護者だからね」
ぱちぱち、とまばたきをくり返した後、へらり、とアリスが笑った。
くったくのない少年の笑顔。黒真珠のような瞳に浮かぶ歓喜と、全幅の信頼を受けとめながら、フヒトは胸のざわめきが収まっていくことを感じた。
いつか噛みしめた不快感も、よどんだ感情も、わいてこない。
ともされたものだな、と苦笑しながら、フヒトは悟っていた。
(ああ……そういう、ことか)
――[史記]でありながら『書』ではない。読み手を選ぶだけでなく、自ら記録を【参照】するばかりか……ときに偽り、あざむくことさえも、できてしまう。
リ=ヴェーダが、フヒトを常に傍に置く理由であり、そして同時に、アリスをたくした理由でもある。
彼は、かつての[史記]が持ちえなかったフヒトの権限、【自己参照】を――それに付随する【改編】を、危険視している。
三位の領域で向けられた苛烈な黄金色のまなざしを思いだして、フヒトは、そっと目を伏せた。




