[2] ひそやかに迫りくる(2)
「踊らされる? なんのことですか」
眉をひそめたフヒトの問いには答えず、ヒジリは、ちらり、と周囲を確認する。
「坊主は?」
「……。アリスですか。さて? 棟内にはいるはずですけど」
「へえ? 一緒にいないとは、めずらしい」
「僕だって、四六時中一緒にいるはずありませんよ」
含みのある声色で、口の端をつり上げたヒジリの表情に、フヒトは、辟易する。
(なにか裏があるな……)
[叡魔]と顔をあわせたくない。という名目で、三位の領域にすら寄りつかない放蕩者が、監査棟などというへんぴな場所にいること自体、おかしいのだ。
第一、ヒジリがたったひとりでいるというのも、妙だ。
求心力に長けるこの『王』の周囲には、勝手に人が集まる。
本人もそれをいとわず、かといって馴れあうでもなく、集団の一歩先をいくのが、このヒジリという男の常である。
フヒトにとって、[叡魔]であるエマを、馬が合わない存在というのなら、[勇聖]であるヒジリは、気に食わない存在にあたる。
『王』としての資質を認めては、いる。しかし、それはそれ。これはこれ。
「あなたこそ、[干戈]をともなっていないとは、めずらしいのでは?」
「ああ。あれは、[焔灯]と相性が悪いんでね。置いてきた」
「[焔灯]……ですか」
野暮用、とやらと関係があるのだろうか。
たしかに、当代の[干戈]はヒジリに強い執着を示している。熱狂的な信奉者であるアカリとは、衝突してもおかしくはない。
フヒトは、とりたてた特徴のない少女が、黄玉の瞳をした少年に牙をむく様を想像して――やめた。
『特異』のなかでも、強い【権限】を持つ[焔灯]と、戦いに魅入られた狂気の化身――『聖魔戦争』における[叡魔]陣営の最終兵器でもあった――[干戈]が争うなど、どう考えても地獄絵図だ。
「今回は、メイ――[長庚]との折りあいが、どうも、上手くついていないようですね。イカれ猫が介入したせいでしょうけど……それで仲裁を?」
「本気で気づいていないらしいな」
「はい?」
「リ=ヴェーダから、直々に『監査役』を言いつかったお前が、一時とはいえ目を離すなんて、らしくない」
予想外の言葉を投げかけられて、フヒトは目をみはった。
「それ、は」
反論が浮かばない。たしかに、以前の自分であったなら、絶対に考えられないことだ。
多少、わずらわしく感じることはあっても、アリスと共にいる空間は、フヒトにとって、耐えかねるほど息苦しいものではない。
たびたび、アリスに一人で行動させているのは、そのぐらいの自由はあってしかるべきだ、と、そう判断したからだ。
――そして、それは、フヒトにとっては、あるまじきことだった。
表情をこわばらせたフヒトを、いつになく強い光を宿したヒジリのまなざしが射ぬく。
軽薄な笑みを消し、真剣な面持ちでたたずむ男の、堂々たるその風格は、まさに王者のものだった。
三位の一、[勇聖]が、あそこまで眷属に信奉される理由は、この変わり身にある。
「[史記]。学都が学都である理由はなんだ」
「……また、脈絡のない」
「答えてみろ」
「『学園』があるからでしょう。この地の中心が学園だから。そうとしか言えません」
「ではそれはいつからだ?」
つかの間、答えに迷ったフヒトに、ヒジリが、皮肉な笑みを浮かべる。
「『聖魔戦争』の後から、だろう。俺たちは、自分とはなにか、そのなすべきことを、すべからく知っている。だが、他者のことは知らない。自分であることを優先するあまり、ささいなことでも衝突が絶えない。――特に、『特異職』の連中はな」
黙りこんだフヒトの隣へ移動して、ヒジリは香木の柵をなぞる。
『学園』の裏手に位置する監査棟からは、木々にさえぎられて、本棟を眺めることはできない。
しかし、高さのある別棟ならば、この場所からもよく見える。
ヒジリは、ないだ深緋の瞳に、『特異』たちの住まう隔離棟を映して、つづけた。
「異なるモノが存在していけるほど、学都は広くはない。この地の中枢は『学園』だ。それは、かつてリ=ヴェーダが定めた落とし所であり、相互理解のための苦肉の策だった」
「なにを、おっしゃりたいんですか」
警戒をにじませたフヒトの言葉を受けて、ヒジリは、真顔で告げる。
「――崩れるぞ、[史記]。学都は、もう持たない」
屋上を、生温い風が、吹きぬけていった。




