[1] ひそやかに迫りくる(1)
監査棟の外階段をのぼり、フヒトは、もうしわけ程度の柵に囲まれた屋上へと、足を踏みいれた。
時を重ねてなおもそこなわれない、香木の香りが、鼻をくすぐる。
頭上では、[焔灯]のつかさどる光球が、煌々と輝いている。
一刻前までは、『影』が差していたのに、もうこんなにも明るい。当代の『名持ち』――メイとアカリは、いまだに意地の張りあいをつづけているようだった。
「ああもう、せわしないな……!」
一般に、光の眷属は[焔灯]の守る昼を好み、闇の眷属は[長庚]のもたらす影に安らぐのだと言う。
まさに、原初の[勇聖]と[叡魔]の嗜好そのままに。
しかし、そのいずれにも属さない、フヒトのようなモノにとっては、めまぐるしい覇権争いなど、うっとうしいだけだ。
大きく息を吐いたフヒトは、定位置になりつつある一角に腰を下ろすと、目を閉じて年季の入った柵に背をあずけた。
緑青色をした二房の長髪が、床の木目に流れる。
学都DiCeには、『来訪者』の語るような、天候の変化がない。『雨』や『嵐』などは、決して起こり得ないし、そもそも『雲』ですら存在してはいない。
災害といえば、ユ=イヲンのおこなう『ダイス』くらいのものだ。
(もし、そんなものがあったとしたら、学都はひとたまりもないだろうな)
フヒトたちが根城にしている監査棟は、『聖魔戦争』の終結後、まもなく創られたものだ。
当時の[調停者]の【宣言】により、戦火に焼かれたこの地は、またたく間に再建されたという。
いまの学都の心臓部である『学園』が、先代の[調停者]が織りあげた、精巧な芸術品であることを知るモノは、もうほとんどいない。
代替わりの早い『特異職』にいたっては、皆無と言えるだろう。
――だからこそ、彼らは[調停者]をあなどれる。
『最高権力者』とは、単に地位を示す称号ではない。【宣言】という、そらおそろしいほどに精密で、強固な理をつむぐ【権限】に対する畏敬の念が、そこにはあった。
ましてや、その対象は、『例外』を除くすべて。この学都の『王』たる、[勇聖]や[叡魔]であっても、[調停者]の【宣言】には従わざるを得ない。
あまりにも、いまの民は無知だ。
【宣言】がおこなわれないことに慣れきって、その偉大さを忘れている。彼らの信奉する『王』たちは、いずれも、理解しているというのに。
「ずいぶんと不機嫌そうだな、フィーちゃん?」
「……なぜ、こんなところにいるんですか、[勇聖]」
いぶかしげに見上げるフヒトの視線を受けて、[勇聖]――ヒジリは、くつり、とのどを鳴らした。
「すこし、野暮用があってね。ついでだから、『保護者』の顔でも拝んでいこうかと」
「そうですか。おひきとりください」
「本当に敬意をはらわないねえ、お前」
深緋の瞳は、愉快そうに細められ、藍白の短髪が光を反射して、まぶしいくらいだ。
『かの方の勇の下には、あまねく照らす輝きこそが相応しい』
――フヒトは、はるか昔、原初の眷属たる[焔灯]が語った言葉を思いだした。
先日、当代の『名持ち』であるアカリも似たようなことを言っていたが、まさにその通りだと思えなくもない。
燃えさかる業火のような鮮烈さで人々を魅了し、ひきいてきたヒトの『王』は、輝く光の下でこそ、真価を発揮する。
異形の『王』たる[叡魔]が、穏やかな闇のなかでこそ、その深遠なる知識を生かしきることができるのと同様に。
合わせ鏡のような、二人の『王』。
[勇聖]が『動』であるならば、[叡魔]は『静』だ。
対立し、補いあい、ここまで民を導いてきた。対照的であるがゆえに、あいいれない、その間をとりもってきたのもまた、[調停者]だ。
(――なのに、リヴさまは表舞台に出ようとされない)
ぎり、と歯噛みしたフヒトの表情を観察しながら、ヒジリは、大げさなしぐさで肩をすくめた。
「まったく、どいつもこいつもらしくない。お前まで踊らされてどうするんだ、[史記]」




