[21] 真実を騙る書(2)
意味がわからない、とフヒトは眉をよせる。
ユ=イヲンの言葉はまるで、[史記]にあつかえない情報――まさに彼女自身のような――を、根本から否定しているようにさえ聞こえた。
「そうだよ、存在しちゃいない……俺も、あの子も、……フェンも」
(ふぇん?)
独り言のように、小さく漏らしたユイの表情を、うかがうことはできない。
聞きなれない名称に首をひねったフヒトの視界は、すでに大きくひしゃげ、あまたの色形が氾濫をおこしはじめていた。
『ダイス』により乱れた情報のなかを、不釣合いにクリアなユ=イヲンの声が渡ってくる。
「――大丈夫だよ、フヒト。きみが真実をうしなうことなんて、ありえない。真実のほうが勝手に寄ってくるんだから」
なにが言いたいんだ、と聞きかえすこともできないうちに、フヒトの意識は、闇に落ちていった。
つぎにまぶたを開けたとき、そしらぬ顔ではためく自室のカーテンをみつめて、フヒトは立ちつくしていた。
「なんなの、もう……」
毒づきながら、もたれかかったソファで、フヒトは沈黙につつまれた部屋の居心地のわるさを思いだした。
(ああ、アリスを探しにいかなくちゃ)
あの、やかましくて子供じみた、まっすぐな少年ならば、この胸に詰まった閉塞感を、忘れさせてくれるような気がしていた。
疲弊したフヒトの精神が回復するよりもはやく、監査棟二階のドアは押しひらかれた。
「フヒト!」
考えずともわかる。犯人は、なんど言っても聞かずに、ノックするひまさえ惜しんで飛びこんでくる、来訪者だ。
身をおこすことさえ億劫で、フヒトは苦言をていすることをあきらめた。
「帰ってたのか! すげー探したんだぞ、俺」
ばたばたと駆けよってくるアリスに、変わった点はみられない。
「メイなんて、ずっとふるえてて……なあ、一体、なにしたらあんなおびえるんだよ。本当にユイがやったのか? 十年前っていったら、あいつだって――」
「ユ=イヲンだよ」
間髪いれずに応じたフヒトに、アリスは、とまどったように言葉をのんだ。
心なしか、みひらかれた丸く大きな黒瞳を、横眼で静かに見すえながら、フヒトはつづけた。
「[長庚]を【破戒】したのは間違いなくユ=イヲンだし、[破戒者]でもなければ、できない」
とりつく島もないフヒトの答えに、アリスは、ギッと歯を食いしばる。
「でも……。コワすって、どういうことなんだ。……ユ=イヲンって、結局なんなんだよ」
「前にも言ったけど、あれは『例外』。僕らの基準じゃ測れないモノ――残念だけど、アリス。僕も知らないんだよ」
『理に則って律を破る』。
ユ=イヲンがコワしたモノは、後にゆがみを残さない。セカイという枠組み自体を変質させて、その存在がなくとも成りたつようにしてしまう。
……それが、【破戒】という権限ではないかと、フヒトは考えている。
(でも、さっきの火球は)
あれは、消えうせた。いかなる代用もないまま、生じるはずがない穴が生じた。
ゆえに、あの一瞬――なにが起こったのか、フヒトにはまるで理解ができなかった。
「……僕は、きみが思うほど優れた存在じゃない。すべてを知っているのに無知で、権限を持たないわけではないのに、ひどく無力だ」
『知ること』『伝えること』それがすべてなのに、それさえ満足にできない。
セカイそのものを記した『書』とされながら、あつかえない情報がある。理解できない事象がある。
[破戒者]はフヒトの存在を、その意義を、容赦なく奪いさる。
――ただそこに在るという、事実だけで。
「フヒト……?」
「きみに言ったってどうにもならないことだね、ごめん」
どうかしている、とフヒトはひとり、かぶりを振った。
まっすぐに向けられる、なんのふくみも持たないアリスのまなざしが、突きささるような、かすかな痛みを生む。
眉をひそめてすぐ、フヒトはそれが『感じ方』の問題であることに気づいた。
(僕が、この程度の影響を流しそこねるなんて)
アリスがオちてきて以来、なにもかも乱されてばかりだ。
これまで十六年間、なにひとつ、疑いも迷いも、いだいたことなどなかったというのに。
――そのどちらが異常なのか、すでにフヒトにはわからなくなっていた。
逃げるように視線をそらした窓の外では、いつのまにか、また覇権をとりもどしたらしい『影』が、静かに学都を包みこみはじめていた。
第三話*観測者と特異職<了>




