[20] 真実を騙る書(1)
「はなせ、この、イカれ猫!」
腕のなかから、のがれようと、フヒトは手足をバタつかせて暴れる。すると、ユイは、思いのほかあっけなく身体を解放した。
あわてて距離をとったフヒトは、周囲の景色を観察する。個性のない倉庫群と、足もとに広がる石畳。
(――工業区。の、どこ?)
『ダイス』以来、学園内から出ていないフヒトには、目の前のありふれた風景から正確な居場所を推定することは、難しい。
いっそ、【自己参照】してしまおうか。
すぐさま湧きあがってきた欲望と葛藤するフヒトの思考に、愉しげな[破戒者]の声が割ってはいった。
「ひどいなあ。俺は、親切で連れてきてあげたのに」
「……信じがたいほど似合わない単語が聞こえた。幻聴か」
「し・ん・せ・つ。――あのまま、あそこにいたら、きっとリヴに怒られるよ? 『監査議員』さん」
くすくすくす。ユ=イヲンは、ほほ笑みながら揶揄する。
フヒトはわかっていた。きっとリヴは怒らない。
ただ、あの穏やかながら強い黄金色の瞳は、容赦なくフヒトをつらぬくだろう。
[史記]がどういうものなのか、彼は知っている。その上で、フヒトの存在を受けいれ、ときに利用し、ときに導いてきたのだ。
『【改編】をおこなうな』
――つねになく厳しい声で告げられた諫言が、フヒトの脳裏をめぐる。
『もちろんです』
答えた言葉に、嘘はない。
(だから、……僕は)
ためらいながら、ひらいた視界の片隅。気まぐれな猫のように、のどを鳴らして、ユ=イヲンの瞳は三日月型に細まった。
「きみは本当に、きまじめで、かわいいねえ。オトモダチが、からまれても、かばわない。オナカマの危機でも、助けない――ああ、責めているわけじゃあないんだよ?」
顔をそむけたまま、手のひらに爪を食いこませるフヒトを、闇色の片眼は無情に映しだす。
ひょうひょうとした笑みとは、いささか種類の異なる、ふくみを持った表情を貼りつけて、ユイはつづけた。
「だって、きみはソウイウモノだ。生きた歴史書。観測者。いろいろ言われちゃいるけれど、一番しっくりくるのはやっぱり」
「――傍観者」
しぼりだすようなフヒトの声に、ユイは、勢いよく両の手をあわせた。
「そう、それ!」
「お前に、僕のなにがわかる」
「……わかると思うけどね? すくなくとも、リヴよりは」
冷めたフヒトの声色を、まるで意に介さない様子で、ユイは肩をすくめた。あいまいに持ちあげられた口の端が、フヒトの神経を逆なでする。
ぴくり、と眉を動かしたフヒトを、彼女は鼻で笑った。
「ねえ、フィー。きみの存在理由はなに?」
「僕は、……[史記]は、己を媒介として『記録』をたくわえ、他者に【参照】されることにより……それを、伝える」
いわば、読み手に、【参照】という権限を貸しあたえるモノである。
本来、[史記]自身には、なんの権限もない。[史記]は、ただの記録媒体であり、『書』にすぎない傍観者だと……誰よりもフヒト自身が、よくわかっている。
「違うよ、それは[史記]の定義だ。きみには【権限】があるでしょう」
「な、に?」
「きみは【自己参照領域】を広くもっている。それは真理であり必然だ。与えられたのなら行使すべきだよ」
「僕に……【改編】をおこなえっていうの」
低くうなったフヒトの浅緑の瞳が、常にない険を帯びて、[破戒者]をにらみすえる。
それにまた、おもしろそうに、のどをふるわせて、ユイは応えた。
「そうは言ってないじゃない。フヒト、きみは[史記]だ。きみこそが真実、きみこそが歴史。――それ以外なんか、存在しないんだ」




