[3] 絶対的『例外』の蹂躙
理解が追いついていないのか、しばし、大きな瞳をパチパチとまたたかせていたアリスが、一拍遅れて、にへら、と笑った。
突拍子もないことを口走るわりに、いささか頭の回転が遅い。まるで緊張感のないその様に、フヒトは、わずかでも警戒した自分がアホらしくなった。
(ただの馬鹿じゃないか)
早くも手を差しのべたことを後悔しはじめた、そのとき。
予告なく訪れる、全身があわだつような生理的な嫌悪感。ゾクリ、と身をすくませたフヒトを取りまいて、ソレは始まった。
「な!? あ、あんた、すすす透け――」
困惑した声をあげるアリスをよそに、フヒトはいたって冷静に告げる。
「『フヒト』。いつまでもあんたとか言わない」
「ふ、ふひと? なに落ち着いてんだよ、だって、身体! ゆ、幽霊? 死んでる? じゃ、俺は」
「きみは落ちつきなよ」
半透明のフヒトが、思考をオーバーヒートさせたらしいアリスに、生暖かい視線をなげた。その直線上に、ノイズが走る。
「は」
ポカン、と口をひらいたまま固まるアリスの右奥に、もう一筋。続いて頭上、さらに左遠方にも。
加速度的に密度を増していく、無数のノイズ。あたかも空間そのものがヒビ割れていくかのように、異変は拡散する。
――『ダイス』、だ。
気まぐれな絶対者の干渉。
『記録』を顕現する己の存在が、元凶によって意図的にブレさせられていることを、フヒトは自覚していた。
『[史記]を巻きこむと厄介だからね』――そう言いながら、細められた紫黒の片眼を鮮明に思いだす。
かみしめた奥歯が、ギィ、と鳴った。
「イカれ猫が」
フヒトの憎々しいつぶやきと同時に、パキリ、と音をたてて秩序が崩壊した。
わたわたとあたりを走りまわっていたアリスの姿が、背景に溶けこみ、ぐにゃりとゆがむ。
学都のカタチを保持していた、核となる情報が乱され、組みかえられていく。目にうつるすべての色形は混ざりあい、複雑怪奇な紋様があたり一面に散りばめられた。
学都全域、その表層的形質がすべて、蹂躙者の手におちる。
「あははははは!」
混沌と化した空間に、変声期前の少年を思わせるハスキーな笑い声が響きわたる。
聞きおぼえのある、もはやトラウマになりつつあるその声から、フヒトは全力で意識をそらした。
――[破戒者]ユ=イヲン。律を破り、理をゆがめる権限を与えられた、『唯一無二の例外』。
観測者に過ぎない己には、アレを阻むことなど到底できない。巻きこまれることによって乱されるのは、[史記]であって[破戒者]ではない。
保護されて、いるのだ。
学都DiCeの再構成――通称、『ダイス』のさいには必ず、フヒトはあらかじめ干渉外に置かれる。お気に入りの玩具を壊してしまわないように。
(ああ、めちゃくちゃだ……)
建物などの無機物から生物まで、かき乱されたモノたちが徐々に個々のカタチを取りもどしていく様を、フヒトは苦いあきらめを抱いて眺めつづけていた。