[11] 焔灯と長庚(2)
目の前をおおっていた白黒のカーテンが消えさり、いつもどおりの別棟の姿が、あらわれる。
そびえ立つ石造りの重厚な棟を見上げながら、フヒトは、ようやくアリスの右手を解放した。
「目がチカチカする……まだ痛え」
「本当に?」
眼をおさえてうめくアリスを、フヒトの浅緑の瞳が、射ぬく。
「そりゃ、まあ」
「痛いはずない。きみはなんの影響も受けてはいない。そこには光があり、そして影があった。……それだけだよ、アリス」
ゆっくりと、言いきかせるように、フヒトは言葉をつむぐ。
「は……?」
アリスの黒眼が、困惑に揺れた。
「――痛みなんて、存在しない」
もういちど、強く断言したフヒトに、アリスの瞳は、いよいよ丸くみひらかれる。
「存在、しない……。あ? あれ。そんな痛く、……ない?」
たしかめるように、まぶたのうえから、アリスは、なんども両眼をおさえる。その様子を、フヒトは、静かにみまもっている。
……数秒の後、なんでなんともないんだ、と、アリスは眉をひそめてつぶやいた。
「それが『流す』ってことだよ。受ける影響は、意思ひとつで大きく変えられる。覚えておいたほうがいい」
疑う、では、たりない。そうである、と断言し、現象として固定する必要がある。
そうやって、相手がもたらした情報が、カタチとして顕現してしまうまえに、すこしだけ干渉するのだ。
もっとも、どう考えたってアリスは流すことに不向きなたちで、たいした効果は望めないだろうとは、思う。
フヒトは、ため息を吐いた。
(来訪者は定着度も低いし、仕方ないか)
不出来な生徒に、ていねいな指導をする気もおきない。頭を抱えだしたアリスは、そのまま捨ておくことにする。
そして、フヒトは、光のなかからあらわれた少年のほうへと意識を向けた。
「あーあ、じゃましてくれちゃって。まったく、あいわらず地味な色してるね、ちびすけ。俺、その色大っ嫌い」
くるくると巻かれた橙色の髪。自然にふくらむそれを、乱雑な手つきでかき乱しながら、少年――[焔灯]は毒づく。
あざやかな黄玉に映る、いらだち。キッとつりあがった目尻に、気の強さがにじんでいる。
「ワタシはそういうものだよ」
きょとん、とした表情で首をかしげるメイを、憎々しげに、アカリはにらみつける。
そんな二人の様子をみて、やれやれ、とフヒトは肩をすくませた。――これだから、『特異』同士の接触は、厄介なのだ。
「ふーん、まあいいや。どうせお遊びだし。俺からのあいさつ替わりだよ。――で、本題」
言いながら、メイに歩みよったアカリは、にっこりと笑いかけた。
わざとらしい、ほほ笑みに、メイの表情がくもる。
「ねえ、[長庚]。復帰そうそう、わるいけど。影、呼ばないでくれる?」
アカリの黄色い双眸が、ゆらりと、またたいた。
[調停者]の深みのある輝きとは異なる、直截的で鮮烈な印象をいだかせる光。あれは、熱と灯りをつかさどる、[焔灯]特有のものだ。
「……できない」
ややあって、ゆったりと、かぶりを振ったメイは、簡潔ながらハッキリと拒絶を示した。
アカリの表情が、消える。
このあと、どういった展開が訪れるのか、フヒトには、すでにわかっていた。
台頭しはじめた、二人の王。[勇聖]と[叡魔]。それぞれに、もっとも早く膝をついた『原初の眷属』こそが、[焔灯]と[長庚]である。
――それは、いくどとなく、くり返されてきた、光と影のせめぎあい。
もとをたどれば、聖魔戦争さえ、両者の争いに端を発したものであったという。根深いどころの話ではない。
「おとなしく従いなよ、ちびすけ。ヒジリさまには、あまねく照らす輝きこそ、似合う。かの方の勇のもとに、くぐもった『影』なんて、ふさわしくない」
「かつて、[叡魔]が望んだ。それだけで十分。知性あふれるかの方には、穏やかな安らぎの闇こそ、必要。だから、ワタシは譲れないのだよ」
亜麻色の瞳と黄色の瞳が、音をたてそうなほど、激しくぶつかりあう。
(また、はじまった……)
もう、どれだけくり返されたか、わからない。フヒトにとっては、嫌というほど覚えのあるやりとりを、冷めた瞳で眺めつづていた。
しかしながら、その場には、ひとつだけ予想外の点があった。
[史記]以外の第三者――アリスの、存在である。




