[5] 遭遇(2)
フヒトを横に押しやるようにして、アリスが、ユ=イヲンにせまる。
「その子を離せ!」
「『離せ』?」
眉をつり上げ、険しい表情で叫ぶアリスに、ユイは感情のない声を返す。
その間、拘束が緩んだのか、メイがその場に崩れるように座りこんだ。気づいたフヒトが、そっと少女をひき起こす。
「アリス、きみには関係ないことだよ? きみはなんにもわからないくせに、口だけは達者だ……ああ、黙ることを知らないだけかな」
「なんだって――」
食い下がろうとするアリスを、フヒトは慌てていさめる。
「アリス!」
どう考えたって分が悪い、と、フヒトは歯ぎしりした。
[破戒者]の機嫌を損ねるような真似は、避けた方が賢明だと、学都の民ならば誰もが考えるだろう。
「っ……」
メイを保護するフヒトをちらりと見やったアリスは、一瞬、ためらうそぶりを見せるも、しかし両腕を伸ばしてユイの胸ぐらをつかんだ。
「建物ぐちゃぐちゃにしたかと思えば小さな女の子おびえさせて、なにがしたいんだよ! あんたのやってること、滅茶苦茶だ。前のこの子がなにしたのかなんて知らねえけど、いまのメイには関係ないだろ」
その暴挙に、ぱちぱち、と片目をまたたかせてから、ユイは大げさに腹をかかえて笑いはじめる。
いまだに、がくがくと震え続ける[長庚]をなだめながら、フヒトは背筋に冷たいものが伝う感触に、身体を揺らした。
「あ、ははは! ねぇアリス。どうして俺がきみの指図を受けると思うの? きみ如きが俺をあつかおうだなんて」
一度言葉を切ったユイは、布におおわれていない左眼で、アリスを鋭くにらみつけた。
「――思い上がるなよ、小僧」
目尻の垂れた闇色の瞳に、不穏な影が宿る。
不自然に風のないだ空間は、もはや、[破戒者]の支配下に落ちつつあるようだった。
アリスを連れて逃げることを選択肢に上げ、すぐにフヒトは思いなおした。……意味は、ない。
ユ=イヲンは、たしかに気まぐれだが、それは『その他大勢』に対してのこと。解決にはならないだろう。
(だけど、どうしてアリスに執着する?)
フヒトは、固まるアリス、そしてユイの横顔を盗み見た。
力の抜けたアリスの腕を振りはらったユイは、そのまま左手で髪をかき上げ、そして。
その右手が、人形じみた顔に巻かれた布地に、伸びる。
それだけの仕草に、理由もわからずゾッとしたフヒトは、どうするべきかもまとまらない思考のなかで、とっさに声を上げる。
「ユ=イヲン!」
音にしてから、つづける言葉を持たないことに、フヒトは気づいた。
[破戒者]の名は、真音である。あまたある言名のなかで唯一、誰もが真音を発話することができる。
その上で、至上の理が生み落とした異端児は、なんぴとの支配をも、うけることがない。
拘束力などないと、わかってはいた。
ただどうしても、あの布の下を見てはいけないような、気がしたのだ。
動きを止めたユイは、そのまま両手を下ろして、フヒトの方へ向きなおった。
「似合わないことをするね、フィー。[史記]は、そういうものじゃないのに」
「それは」
言葉につまったフヒトを、ユイはやはりよくわからない微妙な表情で観察している。
「まあ、いいや。今日はただの警告。なにもしない。ああ、そうだ。おどるのはいいけど壊れちゃだめだよ? まだまだこれからなんだから」
「なに言ってるの? イカれ猫」
「わからないの? そうだよね、わからないか。――あはははは! きみたちはとても可愛いね」
ちらり、とアリスの方を見やってから、ユイは嘲笑に近い笑みを浮かべた。
それを見たアリスの表情が、ふたたび険をおびる。可愛らしい少年のいかくに、眉を上げたユイは、さも面白そうに、のどを鳴らす。
「まだだよ、アリス。もっともっと、あがいて。だけどきみは俺に届かない。俺はきみを救わない――哀れだね」
あぜんとするアリスへ背を向けて、あっという間にユイはフヒトのわきをすり抜ける。
ぱっと振りかえったフヒトの視線の先で、座りこむメイを見下ろし、[破戒者]は言う。
「闇呼びの子兎。つぎの狂い月が訪れないといいね」
うつむいたまま、びくり、と肩を揺らした少女の頭を一、二度軽く叩いて、はた迷惑な絶対者は姿を消した。
なんともいえない余韻にひたりながら、フヒトはそれが、はじまりにすぎないことを感じていた。
ユ=イヲンは見ている。
アリスを、あるいはフヒトを、あの、嗜虐者のようなまなざしで。




