[12] 矛盾する真実
アリスをともなったフヒトは、三位の領域をとりまく林を通りぬけ、北上する。
学都の北部に位置する学園において、もっとも近い『壁』は、北だ。もちろん、頭上にも存在はするのだけれど、視認できるような距離にはない。
今の配置――すなわち学都本来の配置――では、監査棟は一般校舎の北、その裏手。監査棟を中心に、東に別棟、西に三位の館が位置する。
フヒトたちは今、学都の西北端にほど近い場所にいる。しかし西方面へ抜ける道は入りくんでいて、先へすすむのは容易ではない。
そこで、フヒトは、北へ進路をとって林を抜けた。
「アリス」
足をとめたフヒトが、ゆっくりとふりかえる。
「正面にあるのが、『壁』――学都を立方体状にとりまく、境界だよ」
アリスの瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「これが……?」
フヒトが一歩引いて場所を開けると、おそるおそる、といった様子でアリスが前にでる。
そっと伸ばされた細い指先が、『壁』に触れる。
――なにも、起こらない。
パッと引いた手に力をこめて、もう一度。今度は叩きつけるようにして、アリスはてのひらを『壁』に押しあてた。
「そんな!」
勢いよく、なんどもなんども、アリスはくり返しこぶしを打ちつけた。制止することもなく、フヒトは、無言でみつめつづけている。
「なんで……なんでだよ! こんな、嘘だ……だって」
「――『なにもない』のに?」
「フヒト!」
勢いよくふりかえったアリスの瞳が、困惑に揺れている。
「どういうことだよ、これ」
「どういうもなにも、それが『壁』なんだ」
短く嘆息したフヒトは、アリスの隣にならぶと、そっと持ちあげた右手を『壁』にあずける。
心なしか白く曇った境界は、なんの抵抗もなくフヒトの腕を受けいれた。
……だが、それだけだ。
触れる感触もなく、しかしそれ以上、決して奥には進まない。どれだけ力をこめようとも、触れかたを変えようとも、変わらない。
「僕は言った。『壁』は境界だと――それ以外の、なにものでもないんだよ、アリス」
表面をなでるようにてのひらを上下させたところで、抵抗も触感も生じない。
しいて言うのであれば、そこには流れがある。目に見えないほどの極小の水の粒。それが膜のように見えているものの正体だ。
水は、不可視の『壁』を伝い、学都全域を巡回している。
「この『壁』は常に学都の四方をとりまいている。……ここに落ちてくるなんて、ありえないんだよ」
「嘘だ! だって俺は落ちてきたんだ、意味わかんねー場所を、ずっと、ずっと、落ちて――」
「そう。たしかに事実だ。僕はそれを知っている」
泣きそうに顔をゆがめて吠えるアリスを、フヒトは困ったようにみつめた。
(アリスは落ちてきた。『外』のない、この地へと)
とんでもない矛盾。それでも事実なのだ。[史記]の記録が絶対である以上、【参照】された真実は決してくつがえらない。
それきり言葉をのんだフヒトは、『壁』からはなした右手を、身体の陰でかたく握った。
――[史記]があやまることなど、あってはならないのだから。
「俺、は」
アリスの声が、ふるえる。
「帰り、たい……。戻してくれ、俺を――このふざけた世界から戻してくれよ!」
渾身の力で叩きつけられたアリスのこぶしが、音もなく『壁』に受けとめられる。
その一瞬、フヒトは異変に気づいた。
(『壁』が……揺らいだ?)
そんなはずはない、と目を凝らしても、そこには普段どおりの白く薄曇った膜がそびえるのみである。
しかし先の瞬間、フヒトにはなぜか、境界にしか過ぎない『壁』の流れが、大きく乱れたように思えたのだ。
――あたかも、アリスの叫びに呼応するかのように。
第二話*観測者と三位<了>




