[11] 観測者の常識、来訪者の非常識(2)
「こわ、される……?」
おぼつかない口調で反復したアリスは、それきり言葉を発せずにうつむいた。フヒトも今度はそれをいさめず、右手で顔をおおった。
(なにしてるんだろ、僕は)
ありとあらゆるできごとは、[史記]の記録対象であり、それ以上にはなり得ない。もちろん、それ以下にも。
そうして、フヒトは無関心に過ごしてきた。それこそが、[史記]としての理想的な在り方でもあり、同時に自然体なのだと、思っていた。
揺らぐ。アリスの側にいると、どうしてか。いままであたりまえに築きあげてきたものを、すべて壊してしまいそうになる。
危険な兆候だと、フヒトは、まゆをひそめた。
しばらくのあいだ黙りこんでいたアリスが、やがて、静かに声をもらす。
「ユ=イヲンって、なにものなんだ」
「あれは……」
アリスの問いに、フヒトは瞬間答えを迷った。
異端中の異端。フヒトたちのような『言葉』によって組みあげられた存在とは違う、明確な定義をもたない、モノ。
実際のところ、フヒトがユ=イヲンについてわかるのは、容姿、声、そしてつかみどころのない性質。その程度のものだ。
「あれは、『例外』。ありとあらゆる律に縛られない存在として、理に認められた唯一のモノ――[破戒者]だよ」
「はかい、しゃ」
「そう、[破戒者]。あれは強大な【権限】を持っている。『持っている』って言いかたが正しいかはわからないけど……。ユ=イヲンはね、いわば学都の根幹を否定する存在なんだ」
口惜しいが、フヒトにはこの程度のあいまいな表現が限界だ。
理をはずれたあの存在は、どうあがいても[史記]にあつかえる範疇を超えている。
「……なら、こわされるって、どういうことだ?」
かたく握られたアリスの両手を視界の端に入れながら、フヒトは応じる。
――知りたいと望むのならば、教えよう。この学都における、ヒトの地位を。
「学都を構成するものはすべて、ある種の情報体なんだ。ヒトも、建物も、ぜんぶ。もちろん僕も」
「情報? って……嘘だ、そんなわけ」
「アリス。きみもだよ」
意味がわからない、と顔に貼りつけたアリスを、短くフヒトは糾弾する。
アリスは、学都でカタチを得た。曲がりなりにも受けいれられた。彼は既に、学都においての在り方にそって存在しているのだから。
「ユ=イヲンは理をコワす。理に則って、律を破る。『ダイス』をみたでしょ? あれも、[破戒者]の【権限】の一例。情報を歪めて、望む方向に寄せてるんだ」
そして、律を破ることがユ=イヲンの【権限】であるなら、学都にはそれにつりあう【権限】を所有するモノが、確かに存在する。
ちらり、と右手の扉を一瞥して、フヒトは微妙な表情を浮かべた。
(――リヴさま。あなたは、なぜ【宣言】をされない?)
ゆるくかぶりを振り、浮かぶ疑念をうち消す。それから、フヒトは改めてアリスをみつめた。
「いいかい、アリス。『ダイス』が歪めるのは情報。きみは、それに巻きこまれていた。つまり、きみは、情報。その塊だ」
「……だから、コワされる?」
フヒトは、うなずく。
「そう。在り方を歪めて、奪われる」
それが、ユ=イヲンという存在だから。
フヒトとアリスの間を、風が吹き抜ける。
また、少しの間、無言が続いた。さわさわと木の葉のすれる音だけが、耳に届く。
やがてアリスは、その黒い瞳に強い意思をのせて、顔をあげた。
「壁を、見せてくれ」
迷いのないまなざしを受けて、フヒトは静かにきびすを返した。
「いいよ、連れていってあげる」
一拍おいて、うしろに追従する足音を耳にしてから、フヒトは歩くペースを早めた。




