[10] 観測者の常識、来訪者の非常識(1)
どう答えたものか、フヒトは、しばし迷った。
やがて、一言、静かに声を落とす。
……それがアリスの望む答えではないことは、わかっていた。
「……『壁』、だよ」
「壁? そうじゃなくて、俺がききたいのは――」
なおも詰めよるアリスをさえぎり、フヒトは告げる。
「壁の外なんて存在しない」
「……は?」
「覚えておいたほうがいい。――それが、学都での共通認識なんだ」
フヒトは、アリスが帰還を望んでいることを、はからずも知っている。
『外』が存在しないという事実が、アリスにとってある程度の重みを持つだろうことは、簡単に予測できた。
気まずさに視線をそらしたフヒトの両腕を、強く掴んだアリスは、すがりつくようにして、問う。
「でも、外は……あるんだろ? だって、俺は」
アリスの声が、腕が、震える。それに気づかないふりをして、フヒトは応じる。
「アリス。きみは、なにを根拠にそれを唱えるの?」
「根、拠って、――そんなの!」
グッと力のこもったアリスの両腕を一瞥したフヒトは、短く嘆息するなり、視線を持ちあげて、真正面から来訪者の黒い瞳をとらえた。
「あたりまえ、だから?」
フヒトの耳には、アリスが息をのむ音が、たしかに聞こえた。
「ねえ、アリス。閉ざされた空間の外にはナニカがあるの? 必ず? ……本当に?」
アリスの瞳のなかに映る像が、揺れる。
「ここはきみのいたバショじゃない。きみの常識は、学都のそれと必ずしも一致しない。もう、わかってるよね」
――それともまだ、認めないの?
感情のこもらないフヒトの声が、容赦なくアリスを追いつめる。
アリスの反応を観察しながら、フヒトは気づいていた。己の言葉を、おそらく、来訪者が正確に理解していることに。
(――そう。この子は、ただの馬鹿なんじゃない。現実を認めずに、投げた)
力の抜けたアリスの両腕を、フヒトは振りはらう。
わからせなければならない、と思う。いま、フヒトが突きはなさなければ。この少年は、いつまでも仮面に甘えつづけるだろう。
「だっ、て……そんな」
「いつまでなにもわからない子供でいるつもり?」
似合わないことをしている、とフヒトは心中で自嘲する。一体いつから、こんなお節介な人間になったのだろう。
アリスは、くちびるを強く噛みしめて、うつむく。
それをフヒトは許さない。両手を金色の猫っ毛に差しいれ、ほとんど同じ高さの頭を、自分に向けてしっかりと固定する。
抵抗は、ほとんどなかった。
「アリス。僕はきみを助けない。自分で立って、認めて、選んで。この世界はきみを必要としていない。あり方を見つけなければ、淘汰されるだけ」
それが、学都の、『言名』に縛られた地の、理だ。フヒトにとっての常識であり、アリスにとっての非常識。
「きみがここに在ることは、とんでもない異常なんだ。理は必ず異物を排除する」
表情の消えたアリスの顔のなかで、瞳だけが大きく見開かれている。感情を削げおとした、光のない黒珠。なにを感じているのか、わからない。
やや時間をおいて、アリスのくちびるが、薄くひらく。
「俺、……消えたく、ない」
どうすればいい、と消えいりそうな声でつぶやいたアリスの頭部を、フヒトは開放した。視線は外さないまま、答える。
「存在を許されているのなら、きみのあり方が認められているということ。それを見つけて、受けいれなきゃ」
そう、しなければ。
フヒトの脳裏に、漆黒の布で右眼をおおった、人形じみた獰猛な猫の姿が浮かぶ。気まぐれで残酷な、学都の『例外』。
「ユ=イヲンに、コワされるよ」
あの、少年のようなかすれた笑い声が、フヒトの耳奥で延々と反響しつづけているようだった。




