[1] 観測者は平穏を望む
雑然とした空間を、ただひたすらに落ちていた。
ぶちまけられたおもちゃ箱。あるいは混沌と言ってもいい。上も下も右も左もわからなくて、それでもたしかに身体は落下を続ける。
ときに緩やかに、ときに猛スピードで。色とりどりの極彩色が広がったかと思えば、次の瞬間には暗闇に閉ざされる。
落下、落下、落下。
不思議と怖くはなくて、けれど驚きで声もでない。なんだこれ。なんで俺、こんなことになってんの? 白ウサギを追いかけた女の子じゃあるまいし。
引きむすんだ唇を解きかけた、そのとき。唐突に意識は闇にのまれた。
――ああ、いきつく場所までいきついた。かすむ視界の中で、漠然とそう思った。
*****
フヒトは、困惑していた。
[史記]という性質上、無関心で、否が応でも全貌を把握してしまうがゆえに、驚かされることもない。……一部の『例外』をのぞいては。
当然の帰結として表情筋は発達せず、表面化する感情表現は、限りなくとぼしい。そんな己の口もとが、めずらしくも引きつっていることを、フヒトは自覚していた。
(なに、こいつ……)
目の前には、捨て犬さながらのウル眼攻勢ですがりつく、華奢な少年。ふわふわとした金色の猫っ毛が、フヒトの足首をくすぐる。
「放して」
「嫌だ」
「……邪魔」
即答する少年を文字通り『一蹴』したフヒトは、相手を待たせてはいけないと足を早める。
三位の一、[調停者]リ=ヴェーダがお呼びなのだ。遅れるわけにはいかない。
「ま、待てって! 頼むから、俺を見捨てないでくれ」
……なぜ。どうしてこうなった、とフヒトは天をあおいだ。
気まぐれに訪れた学都のはずれで、気絶したまま放置されていた少年。育ちの良さを感じさせる華やかな容姿に、異国風の服装。【参照】するまでもない。――『来訪者』だ。
そうと悟ったフヒトの行動は早かった。迷わずきびすを返し、その場を離れる。十六年間平穏に過ごしてきたのだ、面倒に巻きこまれてはたまらない。
さいわい、学都の治安はいいし――リヴさまが治めていらっしゃるのだから当然だ――そもそも、たいした広さもない。『来訪者』が望むなら、商業区にでも学園にでも、たやすくたどり着くだろう。
そう思っていた矢先に、これだ。
目覚めた少年は、あろうことかフヒトを見つけだし、平伏した。
「俺を拾ってくれ!」
迷わず殴りとばした己の判断は、間違っていないと信じている。
かなり容赦のない一撃を見舞ったはずなのだが、しかし見かけによらずタフな少年は、起きあがるなり再びフヒトにすがりついてきたのだった。
どこぞの絵画から抜けでてきたかのような、薔薇色のほほをした美少年。長いまつげに彩られた大きな黒眼にうつる自分の姿を眺めながら、フヒトは思考をめぐらせる。……結論は、すぐに出た。
「僕、人を待たせてるんだ」
だめ押しに、貧弱な表情筋をフル稼働させたほほえみを添えて、遠まわしの拒絶をしめす。
そして、すばやく身をひるがえしたフヒトは、これ以上関わりあいになりたくない一心で、待ちあわせの丘へ向けて駆けだした。