[2] 至上の理、『言名』
困惑した表情を浮かべたアリスが、チラチラとフヒトヘ視線を送る。隠しきれない好奇心が宿る丸い瞳に押され、フヒトは渋々うなずいてみせた。
(仕方ない、か)
パアッと顔を輝かせたアリスが、ローテーブルを挟んだエマへと詰めよる。その襟首を掴んで引きもどしながら、早まったかもしれない、とフヒトは嘆息した。
「ふ、フヒト、苦しい……」
「大人しく。わかった?」
「わかったから、放してくれ!」
ふたたび長椅子に腰を下ろしたのを確認して、アリスを解放する。
そのとき、ふと視線を感じたフヒトが顔をあげると、案の定、愉悦を貼りつかせたエマの紅眼とぶつかった。
「[史記]が執着するとは、珍しいこともあるものよ」
「まさか」
無表情のなかに不満を詰めこんだフヒトの様子に、エマはくすくすとのどを鳴らした。――冗談じゃない、と微かにまゆを寄せるフヒトのなかに、不快感が蓄積されていく。
わずかに険を帯びはじめた空気をねじふせたのは、場違いな明るさをもった少年の声だった。
「だーかーら、あいつは誰なんだよ!」
「……アリス」
脱力感に襲われ、あきれを隠そうともしないフヒトに、[叡魔]はいよいよ相好を崩した。
無邪気な少女の笑みのようでいて、見るモノになんとも言えない威圧感を与える、風格。
そこには、[調停者]の持つそれに、わずかながら近いものがある。
……もっとも、フヒトに言わせれば、両者の間に天と地ほどの差があることもまた、明白であるが。
「よい。アレは[守牙]――妾の盾よ」
刹那、フヒトは少女の瞳に、為政者ゆえの冷酷な輝きをみた。それは、王たるものの持つべき光。時としてすべてをきり捨てるための。
「シュガ? あんた、シュガって言うのか! なあ、なんでそんなとこで立ってんだ? あんたもこっちで……」
「むだだよ、アリス」
来訪者は知らない。来訪者は理解できない。
「彼は『盾』。ソウイウモノなんだ」
僕らという存在の根幹をなす言葉。その重み。その意味。至上の理と呼ばれる、『言名』の真意を、彼は決して理解することはない。
――少なくともフヒトには、その術がみいだせない。[史記]にみいだせないということは、つまり、そういうことだ。
「は……?」
良く言えば冷静、悪く言えば無情にも感じられる落ちついた声色で言いはなったフヒトに、アリスは目をみはっていた。
もともと大きかった小動物のような黒眼が、丸々と見開かれる。
「な、んでだよ……『盾』、って……騎士、とか、ボディーガード……とか……そーいうんじゃ」
「アリス。きみは根本的なところで間違えてる。ここは学都。きみのいたセカイじゃない」
「そんなの!」
「わかってないよ」
感情をこめないまま、フヒトは淡々と事実のみを口にする。納得していないアリスに向けて、おそらく伝わることのないだろう概念を、ただ、語る。
「『言名』は絶対の理。形質をあらわす設計図であり、僕らという存在そのもの。ヒトにとってのツールが言葉なんじゃない。言葉にとってのツールがヒトなんだ。……ここではね」
言葉がヒトを支配する地。ここに生きる全てのモノは、その魂に刻まれた言葉に逆らうことができない。
王たる者は生まれた瞬間から王と定められ、勇者はその誕生とともに責を負う。そこに世襲は存在しない。
職人と定められた者だけが特別の才を持ち、聖職者はただそこに在る限り神に絶対の服従を誓う。
それは意思とはまた別の次元の、決して逆らうことのできない至上の理。
「意味が……」
「わからない? つまりね、『言葉』は他人と情報を共有するための言語ではなく、ヒトにとって便利なツールという位置づけにすらない。僕らよりも上位の存在。僕らを他者と区別する生まれもつ符号。それを便宜上、『言名』と呼ぶんだ」
なめらかに言葉をつむぎながら、わかっていないだろうな、と思う。決して伝わることのないだろう、自分たちの本質。
それでも、フヒトは、語ることをやめられない。
アリスが、知りたいと望んだから。
望まれたから。
『記録』は求めるモノにひらかれるべきだ。フヒトには、その義務がある。




