[32] 観測者は改編を望む
断罪者を咎めるために、ここまで来たのではない。
彼には、鎌を振り下ろさざるを得ない十分な理由がある。わかっている。ただ、はじめから断罪することを前提として罪人を招いたこと――それを、アリス自身に隠しとおしたことに、フヒトは憤っている。
どうすることもできないと知りながら。
うつむいた視界に、ピクリとも動かない少年の横顔が映る。伝えたかった。それだけだった。だれよりも臆病で、孤独に弱い少年と別れる前に、――きみに手を差し伸べたことを後悔していない、と。
認めて、やりたかった。
「アリスは、どうなるんですか……?」
すべてが変わった。よい変化ばかりでは、決してなかった。
フヒトひとりが認めても、現実はなにも変わらない。『アカリ』が消えた。致命傷とまではいかなくとも、[調停者]が動くには、十分に大きな損失だ。存在することで学都を乱す。存在することで学都を壊す。
だから、リヴは、アリスの存在それ自体を否定した。『言名』さえもゆらがす強力な理をつむぐその【権限】で、アリスを断罪した。断罪せざるを、得なかった。
「消滅するよ。っていうと、ちょっとニュアンスがちがうかな。ソレが影響を及ぼしたものすべて、リセットされるんだ。もとに戻る」
「なかったことになるんですか? すべて? いまの僕も、僕らのすごした時間も?」
「フィーちゃん」
聞き分けのない子どもをなだめるように、ユ=イヲンが苦笑する。
「わかっています。アリスの存在が、許容できるものではないことも、失われたモノをとり戻す術が、ほかにないことも。……だけど!」
金色の猫っ毛に指をからませて、蒼白に色をなくした少年のほほをみつめる。かつて、ここには生き生きとした薔薇色がおどっていた。つぎからつぎへと表情を変え、さわがしくて、生命力にあふれた、色が。
ぐったりとしたアリスの横顔は、まるで遊びつかれて眠る子どものようだった。無垢な信頼をたたえていた黒い瞳は、まぶたの奥に沈んだまま。
――この子に、なにをあげられるだろう。
「……許可を、ください。リヴさま。【改編】の許可を」
リヴは答えない。代わりに口をはさんでくるのは、やはりユ=イヲンだ。
「なにが変わるわけでもないのに?」
「軌跡を遺したいだけです。アリスの存在した事実を、この世のどこにも遺せないというのなら、せめて、記録のなかにだけでも」
「それの存在は失われる。誰が求めることもなければ、記録の底、深く眠りつづけるだけだよ?」
「っそれでも遺したいんだ! お願いします。――【改編】を」
リヴは、金色の瞳をまぶたの奥にひそめて、うなる。
「なぜ俺に許可を求める」
「あなたが認めてくださらなければ、意味がない」
「俺の不完全性を、お前は既に知ったのだろう」
「それでも、あなたが法だ!」
つかの間訪れた沈黙が、痛いほどに突き刺さる。だれもが動きをなくした静寂の場で、漆黒の衣が、ばさりとはためいた。
「そう。……きみは、ようやく、役目を理解したんだね」
少年のようなハスキーボイスが、凛と響く。
空気が変わった。滞っていた時が、ゆったりと流れ出す。すべては錯覚にすぎないのに、まるで本当に流れが変わったように――[破戒者]の言葉には、それだけの重みがあるのではと思わされて、フヒトは息をのんだ。
「俺からも頼むよ、リヴ。その子は、まちがったことは言っていない。己のあり方に従ったまでだ。俺たちの介入すべきことじゃない」
ユ=イヲンのまなざしを、しっかりと受けとめて、リヴは、ため息を吐いた。
「例外に、俺に求める許可などないだろう」
「ふふ、そうだね。勝手にすることにしよう。――ありがとう、リヴ」
「なんの礼だ」
しかたなさそうに、それでいて、どこかうれしそうに、リヴは生ぬるい吐息を漏らす。その横顔の、晴れやかなこと。
――あれの望みは、なにを差し置いても優先される。
――望んだのなら、最後まで望み通してみせろ。
「フヒト」
気がつけば、透き通った闇色の左眼と、『壁』によく似た薄光を抱いた右眼――禍々しくも神々しいオッドアイが、フヒトを射抜いていた。
「[破戒者]を妨げられるモノなんて、存在しないんだ」
「え……」
「俺が時間をあげる。ほんのすこしの間だけ、きみを『例外』として退避させてあげるよ。ただし、ほんの一瞬だ。できるかい?」
フヒトが硬くうなずくと、ユ=イヲンは穏やかに笑った。彼女には似合わない、奇妙なほどにやさしげな顔で。
「きみはすべてを忘れるだろう。ほかの多くの民と同様に。けれどきみの奥底に、記録はたしかに眠る。きみが、きみの存在理由を追い求めるかぎり、いつか真実にいきつくかもしれない。――そのときを、楽しみに待っているよ。[観測者]」
倒れ伏した少年の冷えた手に、そっと己の手指を添える。いつか手を差しのべた、あのときのように。
アリス。
きみに未来をあげられるだけの権限は、僕にはないけれど、きみの過去を守ることならできる。
このセカイのだれもがきみを理解できなくても、僕だけは、きみを認めることができる。
――それが、きみという存在のたった一部でも、かまわないんだ。
アリス。
有栖來兎。
きみだけに与えられた『名』を、どうか僕に守らせてほしい。
やわらかな手を、かたく握った瞬間。
「[調停者]の名に於いて【宣言】する――」
朗々たる【宣言】が、響きわたった。
最終話*観測者とハカイシャ 〈了〉
※跋につづきます




