[28] 願うための覚悟(1)
風が啼いた。そのとたん、フヒトは気づいた。――まにあわなかったのだ。
サァッと血の気が引く。穏やかな性格の今代の『ソウ』は、なにごともなく大気を乱すことはない。
そして、あの大人びた双子の片割れが、我をなくすほどの衝撃を受ける事象など、ひとつしか考えられない――。
なにが起こったのか、おおよそ察しながらも、フヒトは惰性で足を進めつづけた。
踏みだした先の石畳が、ぐにゃりと沈んで、まったく別の場所へ飛ばされる。構わずつぎの一歩を踏みだせば、こんどはグルリと天地が逆転した。
『ダイス』のさなかに移動しようなどと考えたのは、はじめてのことだったが、なるほど混沌とはこういうことか。
例によって干渉外に置かれているのをいいことに、つき進みながら、フヒトは、いつまでも落ち着く様子を見せないセカイに嘆息した。
(乱すばかりで、完成させようとしていないからか……)
ふだんの『ダイス』とはちがい、完成形にむけて組み上げるのではなく、ただかき乱している。これは、……そう、まるでアリスが落ちてきた日のような。
どこでもないどこか。見かけ上分断された離れ小島のような、そういう空間をつくるための手段にすぎないのだろう。
いま、フヒトの目の前にあるセカイは、すべてユ=イヲンが不要と弾きだした破片――だとすれば、どこかにきっと、核があるはずなのだ。そして、そこに。
(……アリス)
混沌の海を泳いでいく。足を踏みだすたびに飛ばされて、もうどこにいるのかもわからない。それでも、フヒトは黙々と進みつづける。進むしかない。
――お主がいってなにになる?
――しかし、かなしいかな。権限がない。
ふたりの『王』は口をそろえて、役者不足がすぎるぞ、と釘を刺した。わかっている。わかりすぎるほどにわかっている。己の無力さなど、とうに思い知っているのだ。
それでも。
たとえ、アリスの存在が許されないもので、フヒトがみてきた彼の姿は、ほんの一面にすぎないのだとしても。
せめて最後に、伝えたい言葉がある。
……だから。どうか。
「お願いします、リヴさま」
ほとんど役に立たない視界の端をかすめた藍色の衣を、フヒトは、すがるように掴んだ。
「行かせてください。どうか、ともに」
うっすらと地紋の浮かんだ上質な絹を、離すものかと固く握り込みながら、フヒトは頭を下げつづた。
「……これから俺が為すことも、その意味も、知った上でか」
するり、と手の内から布が抜けていく。軌跡をたどるように見上げたフヒトを、黄金の双眸が映した。
表情を殺したリヴは、静かに問う。
「おそろしくはないのか? 絶対と信じてきたものが、もはやなんの確証もなく、セカイを揺らがすほどの権限を振るおうとしているのに」
「あるいは、これを言うことで、あなたをより苦しめるのかもしれません。……それでも、いまの僕にとって、形なき『理』よりも、あなたの意思――あなたの選択こそが、正しいものとしか思えないのです」
なにも知らずにいることは、しあわせなのかもしれない。はるか高みに座る、三位の人となりを知らず、盲目的に信じることができたなら。学都の多くの民と同様に。畏れ、侮り、甘え、……己のことだけを考えていられたのなら。
けれど、そうできないから、フヒトはここにいるのだ。
「見届けたいと願ったのは、僕です。あなたが何者であろうとも、何者でもなかったとしても、僕にとっての真実は色を変えない」
風に暴れる長髪を感じながら、すぅ、と息を吸った。迷いぬいた果ての覚悟だ、そう簡単にゆらがせはしない。
「――僕がまちがっているというのなら、どうぞ、いまこの場で消して下さい」




