[9] 深奥の侵入者
リヴが【参照領域】を離れたころを見計らって、フヒトはふたたび深層に沈む。記録の門戸を閉じ、あらためて表層に戻ろうとした、その間際。
不意に発生した強烈な引力が、フヒトを強引に深層へと引きこんだ。
(な……!)
あわてて抵抗を試みても、まるで成果はあがらない。奥へ、奥へ。フヒト自身さえもろくに把握していない深層部へと、一方的に沈まされていく。
肉体の感覚が、遠ざかる。さいわいと言うべきか、リヴは、無事に【参照】を終わらせているようだった。
フヒトひとり、どんどん沈みこまされていく。
「また覗いてたの? 悪い子だね、フヒト」
くすくすと笑う、ユ=イヲンの声が反響する。記録ではない。思念ですらない。その意識は、まぎれもない音の形態でとどいた。
「イカれ猫!」
それを聞いて、フヒトは、ようやくなにが起こっているのかを理解した。[破戒者]に門戸をコワされ、『記録』の海に落ちたのだ。
一体全体どうやったのかは知らないが、あれの性質をかえりみるに、考える方が無駄というものである。
「ふふ。そんなに怒らないでよ。きみは自分の在り方をよおく知ってるんだから、簡単に戻せるでしょ? 俺がコワしたのは極一部だもの」
そういう問題じゃない。寸でのところで苦情を飲みくだしたフヒトは、気を静めて姿なき侵入者に問いかける。
「目的はなに」
「あいかわらず、きみは無関心だね。安心するよ」
「馬鹿にしてるの」
「まさか。俺はいつだって真剣だよ」
あいわらず、わけがわからない。
大げさな抑揚のついた言葉が、たいした感情もこめられないまま、矢継ぎ早に飛びだしてくるのだ。
……まともにつきあうだけ、馬鹿をみる。
情報にのまれないように細心の注意を払ってたゆたいながら、フヒトは、ユ=イヲンの意識を拒絶しようと試みた。
「無駄だよ、フィー。俺という情報を[史記]はあつかえない」
追いだそうともがくフヒトを、馬鹿にするように笑い声が響く。
ひどく耳ざわりだ。もっとも、聴覚でとらえているわけでもないのだから、そう言うにはいささか語弊があるけれど。
わずかながら遠のいたように感じられた思念は、ふとフヒトが気をぬいた瞬間に、ふたたび急激な増幅をする。
「アレに関わるな」
「は――」
唐突な変化に度肝をぬかれたフヒトは、間抜けな声をもらした。
「アレは災厄をもたらす。――きみはいつものように枠外から眺めているのがお似合いだ。それがきみの在り方でしょう?」
「アリスが、災厄……?」
たしかにあれは歩く公害だと、フヒトは思う。
けれどそれを言うなら、[破戒者]の方が遥かにふさわしいだろう。予測不能のタイミングで、絶大な被害をもたらす、制御不能の存在。まさに天災級。
理を外れた存在というのは、かくも厄介なものかと、フヒトは常々悩まされている。
もっとも記録をかえりみるに、来訪者がトラブルを引きおこしたという事例も、決して少なくはない。
彼らの常識と学都のそれとの間には、必ず齟齬が生じるのだから、しかたないことだろう。フヒトとて、関わりたくないと思った。
(なのに、あいつがすがりついてくるから……)
無造作に信頼を投げてよこすから、うっかり拾いあげてしまっただけだ。
「そう。それがきみの選択」
「……なんのこと」
「アレが存在する限り、いずれきみは選択を迫られることだろう。そのとき、おなじ答えを導きだせるの? フヒト。誰よりも言名に忠実な、きみが」
意味深な言葉が、フヒトを取りまくようにグルグルとめぐる。
よみがえる、嗜虐者の瞳。
本能的な恐怖心があおられたフヒトを、あざけるように、ユイは笑う。
ワラう。
嗤う――。
残像を振りはらうように、フヒトは、なりふり構わずユイを叩きだしにかかった。後先考える余裕もなく、強引に。
「僕から出ていけ!」
ユ=イヲンは、抵抗しなかった。拍子ぬけするほどあっさりと身をひいたらしい[破戒者]の意識が、急速に薄れていく。
引きかえに、フヒトは、身体の感覚を取りもどしつつあることに気づいた。
「だめだよ、フヒト。まだきみに壊れてもらっちゃ困るんだ」
水底から、水面へと。
そして、外へ。
引きずりこまれたときと同じ、圧倒的な力が、フヒトを押しだしていく。
……意味が、わからない。コワされるなら、わかる。それがユ=イヲンの【権限】だ。けれど、これは、一体。
「あがけ、[史記]。汝の存在理由を満たせ」
フェード・アウト――。
ユ=イヲンとの接触が絶たれると同時に、こんどこそ、フヒトの意識はあるべき場所へかえった。




