厄星の降った日
ソレは、本当にかすかな揺らぎだった。
喩えるなら、均衡をたもっていた水面に、一滴のしずくが沈みこんでいったような。音もなく、色もないモノクロの世界で、ごくごく些細な闇色のしずく――歪、が生じ、じわりじわりと拡散していく。
だれもが気がつかぬ間に、静謐なる世界はたしかに変質していた。
*****
「災厄の星が昇る」
唐突に立ちあがった友人の声が、興奮にふるえる。
「ユイ?」
「ああ、セカイがゆがむ。ねぇリヴ、異分子がオちてくるよ。災厄の星が」
「なにを言っている」
「わからないの? 『リ=ヴェーダ』。俺にはわかるよ」
振りかえった少年、ユイは、その闇色の片眼を、押さえきれない好奇心に爛々と輝かせていた。
長い前髪が風にあおられ、右目をおおうように巻かれた漆黒の布地があらわになる。
「――俺には、わかる」
ほほえみを浮かべた唇が、いやに妖艶に音をつむいでいく。いつになく興奮した友の姿に、リヴはセカイが止まったような錯覚さえ覚えた。
「ふふ。愉しみだね。リヴ! なんにも知らない、いたいけな子羊が迷いこんでくるんだ」
いちど言葉をきったユイは、普段の怠惰さをかなぐり捨てた獰猛な笑みを浮かべ、謡うように告げる。
「さあ、どう調理してあげようか」
さながら、舌なめずりする獣。蛇のように細められた瞳は、ここにはいないだれか――『異分子』に定められているようだった。
黙っていれば精巧な人形のようにみえる、作りものめいた美しい顔。その上に愉悦が貼りつけられる様は、ある種のおぞましさを漂わせる。
「……俺には、その子羊とやらが哀れでならないが」
「そう? 精一杯もてなしてあげようと思ってるのに」
憮然とつぶやいたユイは、くつくつと、のどを鳴らす。
「あたりまえだ。お前に目をつけられた段階で、同情を禁じえない」
「酷いなあ。それに、きみはなんにもわかってない」
グッと身を乗りだしたユイは、座りこんだままのリヴのあごをすくう。端正な面立ちを心なしかゆがめて、リヴはその手を払いのけた。
気まぐれな猫のようで、その実もっと凶悪な、掴みどころのない彼女。出会ったころから変わらない、このセカイの例外。
なにひとつとして、わからない。わかろうはずもない。なぜなら、彼女はソウイウモノなのだから。
「――いまさら、だろう」
「あ、はは! そうだったね。きみは昔からそうだ。ホントウノコトなんてなんにも見えちゃいない。そんなきみがバランスキーパーだなんて、とんだ茶番だと思わないかい?」
一転して、むじゃきに相好を崩す、少年のような少女。
「ああ、言いすぎちゃったかな。ごめんね?」
悪びれたふうもない謝罪を聞きながしたリヴは、あきれまじりに息を吐きだす。
ユイは、どこまでも正直に言葉を発する。それを、いちいち気にしていたらキリがない。経験上、そうと知っていた。
「長いつきあいだ、お前の言動に悪気がないことは把握している」
「それは違うよ、リヴ。俺には悪気しかないんだ」
「あいにくだが、言葉遊びにつきあってやるつもりはない。俺はお前ほど暇じゃないんだ」
「ふふ。それは残念」
上機嫌に言葉をかえして、ふらり、と身を起こすユイ。
「――どこへ行く」
「それは俺の勝手じゃない?」
言うやいなや遠ざかる華奢な背中を、リヴは、わずかな圧力をこめて呼びとめる。
「『ユ=イヲン』」
数歩先で立ちどまったユイは、しかし振りかえることはない。かまわず、リヴは言葉を重ねた。
「次は、なにをコワすつもりだ」
「別に、遊んでくるだけだよ。ちょっとした、ごあいさつさ」
「お前のあいさつなど、ろくなものではないに決まっているだろう」
「……で? どうするの?」
一拍遅れた返答には、めずらしくも、かすかな苛立ちがにじむ。
「残念だけど、俺を妨げられるものなんて、存在しようがないんだ。まあ、たしかに、『リ=ヴェーダ』? きみがそうと言えなくもないけれど――」
緩慢なしぐさで首をまわしたユイの視線が、背後のリヴを射ぬいた。
「与えられた権限も行使できない[調停者]に、俺がとめられるならね」
無表情に吐きすてたユイは、言葉をかえす様子のないリヴを確認して、ゆるりと口の端を上げた。
「じゃあね、リヴ。俺は臆病で愚かな君のこと、だあい好きだよ?」
慈愛のようで嘲笑にも似た、複雑なまなざしを残して、意識を正面に戻すユイ。あらためて足を踏みだした彼女の行き先は、ひとつ。
「さあ、お出迎えの時間だ。待っててね……かわいいかわいい、羊の皮を被った狼さん?」