第七談 瀬菜の仮定
「凉莉の様子はどうだい?」
僕は驚いて、座っている椅子から転げ落ちそうになった。
保健室のベッドで寝ている凉莉に付き添っていると、いつの間にか瀬菜が背後に立っている。相変わらずのジャージ姿で。
くそぅ、凉莉の髪の毛を撫でていたのを完璧に見られた……。
保健室にあるベッドの周りは病院と同じくカーテンで仕切りを作ることが出来、僕は凉莉を寝かせた後、完全にカーテンで外部からの視覚を遮断していた。
僕は取り繕うように、
「き、急に現れるなよ、心臓が止まったらどうすんだ」
「面白いことを言うな斎賀。こんなことで心臓が止まっていたら、君は人生で何度命を落としているんだい?」
心肺停止でも即行で蘇生させれば後遺症もなく意識取り戻せるっての。まぁ、難しいけど。
「凉莉なら気にするな。ただショックで意識失っただけだよ。追牧先生がもう少ししたら目覚ますだろうって」
「その追牧保健医はどこへ行ったんだ?」
「職員会議があるって、凉莉診てくれてすぐに職員室へ走って行った」
追牧先生は余裕そうな表情をしていたけど、内面はやっぱり焦っていたのかもしれないな。
保健室出る前に、デスクにぶつかって薬箱ぶちまけたし……。後片付けしたの僕だけど。
「そうか、それならいい。それと、もう一つ」
と瀬菜は僕の顔を覗き込む。
近い、近い!
僕は立ちあがって後ろに距離を取ろうとしたが、ベッドに阻まれた。
「……君は本当にイヤラシイことしか頭にないのかね。いくらここが保健室だからって、さすがに実の妹、私にとっても親戚の真横でそのような行為に走るわけがないだろう」
なら、ここに凉莉がいなかったらそういう行為に走ってたのか?
「そんなわけあるか! 私は単純に君の精神状態を案じただけだ。いいか、親戚として案じているだけだからな。勘違いするなよ!」
ツンデレ……? ここでツンデレですか?
「あー、はいはい。ちゃんと分ってますよ、はとこ殿。それで? 僕の精神状態を案じてくれてるって? いったいぜんたいどういう理屈で?」
「しらばっくれるな。少年A君?」
「は……?」
「ピンとかないか? なら、目撃者A君と呼び変えればいいか?」
目撃者……。
透き通る蒼い目で瀬菜は僕を見据える。
瀬菜の何もかも見透かしたような顔と声に、僕は悪寒のようなものを感じた。
いや、これは悪寒じゃない。焦りと動揺からくる冷や汗……。たぶん額にも脂汗が滲んでいる。
たった一言で、ここまでの変化を引き起こされるとは思っていなかった。
僕は瀬菜の蒼い瞳から視線を離すことが出来ない。
「心配するな。私はあんなことを知ったところで君の見解を変えたりしない。何度も言わすな、私はただ君の精神状態を案じているだけだ。今回はブルーシートがあったものの間接的に君はあの現場を――」
「……お前何意味不明なこと言ってんだよ? あんなこと? 僕の見解? お前は僕の何を知ってるっていうんだ?」
「全部知ってる。過去に君が遭遇した出来事も。なぜ嫌々ながら私の頼みに乗ってくれているのかも、ね」
自分の呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が速くなる。
「君は前の飛び降り事件、本当の第一発見者。そして、の現場目撃者だろう?」
「っ……!」
顔から血の気が引いていくのを感じ取る。同時に過呼吸気味になってきたのか、頭が重く、クラクラし始めた。
僕は髪をかきあげるように、額を右手で押さえる。
確かに僕はあいつの飛び降りた現場のすぐ近くにいた。
もちろん見ている。飛び降りる瞬間から、地面に落下するまで全て――。
けど、この情報は警察やほんの一部の教師しか知らないはずなのに……。警察がプライバシーの保護を図ったとかで、家族にも話されてないはずの情報なのになぜ……。
「決まっているだろう。私もその場所に居合わせたからだ」
「は……?」
たぶん僕はものすごく素っ頓狂な声を出して、拍子抜けした間抜け面をしていることだろう。でも、それだけ瀬菜の発言は想定外だった。
「詳しく言おうか? 三か月前の深夜二時、花月学園高等部棟屋上から相沢侑子が飛び降りた際、私も現場近くからそれを目撃している。加えて言うならば――屋上の手すり付近にいたもう一人も目撃している」
「――っ!」
僕は今度こそ反射的に手を伸ばし、瀬菜の両肩を掴む。
「お前もあいつを見たのか! 顔は? 顔は見たか?」
「その前に手を離せ! 爪が食い込んで痛い!」
「わ、悪い……」
落ち着け、落ち着け。
このままじゃ本当に情緒不安定になって、情報が手に入らなくなる……。
深呼吸。深呼吸。深呼吸。
僕は瀬菜の肩から手を離し、再び椅子に腰かけた。
瀬菜は乱れたジャージの襟首を直しながら、
「さすがの私もあの暗さで屋上にいる人物の顔は見えてないよ。ただ、君と私が屋上にいたもう一人を目撃しているということは、事件という線が強まったな。今回の件も含めて、な」
「待てよ。今回のも本当に事件性があるっていうのか? この間はただお前の推測を僕に話しただけだろ」
「君は本当に阿保だな。昨日『翡翠の死神』をしっかり調べたのか?」
「調べたよ。抽象過ぎてメジャーどころしかヒットしなかった。検索情報狭めたらヒットは一個だけ。それも個人サイトに載ってたやつだ。本当に噂になってんだろうな?」
凉莉に絡まれた後、もう一時間ほど『翡翠の死神』について検索してみたのだが、今言った通りの結果。
世界中のネットワークを通しても、花月高校で都市伝説されていても、ヒットは僅か一つだった。
しかも文字化けは結局直らなかったし……。
「そこまで行きついていてどうして結末に辿りつかないかが、私には理解しがたい……。いいか。花月学園のみで急激に流行る都市伝説。それに加え検索件数一件。そのホームページの主は?」
「『雛上仁乃』、本庄真美……」
「イコール!」
瀬菜は僕の鼻先にビシっと指先を突き付け、
「本庄真美は『翡翠の死神』を花月学園中等部に流行らせた張本人。発信源だ。それを前の相沢侑子の事件と関連させて流している。つまり――本庄真美は私たちと同じ目撃者。且つ、私たちとは違い、屋上にいたもう一人の顔を見ている可能性がある。その口封じで殺されたと考えるのが妥当だ」
途中まで納得していたが、最後のは無理やりすぎると思う。
それに、矛盾点多い。
まず、本庄真美があいつを殺した犯人を目撃したのなら、なぜ警察に通報しなかったのか。
「それは簡単だ。通報したにも関わらず、逮捕されなかった場合を考えろ。犯人が腹いせに通報した輩を探し出そうとでもしたら、自分に危害が加わる恐れがある。そうでなくても犯人が逮捕される可能性は極めて低い。証拠は自分の目撃情報だけだからな。それに、最悪――自分が犯人扱いされかねない」
正直、最後の言葉には心臓が跳ねた。
まさに、僕があいつの落下現場に居合わせたのを他人に知られたくない理由の一つがそれ、だからだ……。僕の友達は、僕を疑うやつらじゃないって分っている。分っているけど、不安は消えない。
いや、今は気を取り直して話を戻そう。
二つ目、もし今回の飛び降り事件も殺人と言うのなら、殺された時期が遅すぎる。
あいつが死んだのは半年前だ。
「本庄真美が犯人を目撃したとしても、犯人が彼女を目撃したとは限らない。ここ数日の間に犯人は、自分があのとき目撃されたのだと知ったんだろう。それで自分の犯行をバラされる前に事件を起こした」
そんなもんなんだろうか……。
まあ、言われてみれば五年越しの計画殺人とかテレビで取り上げられてることもあるしな。
なら三つ目。これは今までの討論とは通じないはずだ。
どうして最近になって『翡翠の死神』を都市伝説として流したのか。
「知らん」
「うぉい、中途半端すぎるだろ!」
思わず、お決まりの手振りまで入れて突っ込んじゃったじゃないか!
ここまで来たら最後まで論破してくれると思うだろ、普通!
さっきまでの焦慮と緊張感が完全に薄れたぞ……。
瀬菜は腕を組み、唇を尖らす。
「君の疑問はもっともだが、これ以上は情報が足りなさすぎる。いくら私でもピースがなければパズルは完成させられない」
「じゃあこれからの主な行動は本庄真美関連の情報収集ってことか」
「その通りだよ斎賀。頭に上った血が下がったようだね。なら行動は早い方がいい。まずは中等部の――」
瀬菜は全てを言いきる前に口を閉ざし、カーテンに冷たい視線を送る。
そして、そのままカーテンを掴み、乱暴にスライドさせた。
「用件があるのなら、盗み聞きしてないで入ってきたらどうだ?」
カーテンの向こうには……誰もいない? いや、瀬菜の視線は下を向いている。
瀬菜の体で邪魔されているが、僕は目一杯体を逸らして目視しようとした。
あ、やば。
僕はそのまま地球の重力に導かれ、椅子から滑り落ちた。
肩に鈍い痛みが走ったけれども、障害物を外れ、盗み聞き犯の正体が視界に入る。
「彩乃?」
瀬菜の足元でぷるぷる震えている彩乃。
「おい、黙っていないで用件を言ったらどうかね? ほら、早く言え。盗み聞きなんて無粋な真似をする愚民風情が。私が君のような愚民と会話している苦労を悟って、とっとと口を開け!」
瀬菜が詰めより、彩乃へ覆いかぶさるように顔を上から覗き込む。その際、長い髪の毛がだらんと垂れ下がり、彩乃の顔を覆い隠した。
僕はその様子を横目に、とりあえず体を起こし、もう一度椅子に腰かける。
「助けてよ、遥!」
彩乃は恐怖に耐えかねたのか、瀬菜の髪の毛を払いのけ、這うように僕の足へ縋りついてきた。
「ねえ、あの女の子誰よ! あたしを放っておいてあんなだっさいジャージ着てる子と会ってるなんて! 信じられない!」
毎度思うけど、僕はお前の中でどのポジションにいんだよ!
それに、だっさいジャージって、一応あれ学校指定のジャージだからな……。
彩乃派瀬菜から身を守るように、僕の後ろへ回り込み、盾を作る。
吐息が首筋に当たってくすぐったい。
「おい、斎賀から離れたまえよ愚民」
腕を組み直して、足で地面をリズムよく叩く瀬菜。
表情は至って普通なのだが、滲みでている黒いオーラが怖い。
対する彩乃は僕にしがみ付く形。どんな顔しているのか窺えないけれども、瀬菜の眉が度々ピクピク動いていることからして、挑発まがいのことをしているんだろう。
「私が遥から離れなきゃいけない理由なんてないじゃない。それよりあなた誰よ? 私たちの恋路に茶々入れないでもらえるかな!」
「恋路ぃ? 君たちのどこに恋愛があるというのかね? 頭が沸いているのかどうか知らんが、斎賀と話しているところを邪魔したのは君だろう愚民!」
「さっきから愚民愚民言わないでくれる? 私には柏樹彩乃っていうパパから貰った大切な名前があるんだけど!」
「愚民の名前などどうでもいい! 早く斎賀を離したまえ!」
瀬菜が僕の腕を掴んで引っ張る。
少し僕の腰が椅子から浮いたあたりで、彩乃も僕の胴に手を回して引っ張り返す。
ちょ……、腕抜ける! 肋骨折れる!
二人とも女子とは思えないほどの力を発揮していた。
そこに。
子供のピンチに助けにくるヒーローが登場した。
「ちょっとあなたたちここは保健室よ。静かにしなさい!」
白衣姿の保健医、追牧先生が鬼の形相を浮かべ仁王立ちで構えていた。
そのまま僕らに歩み寄ると、まず瀬菜の襟首を掴んで後ろに放り投げ、
「ちょっと……、先生、ストップ……! 私悪くない!」
と再度ぷるぷる震えだした彩乃にアイアンクローを決めて、僕から引き剥がす。
そして、そのまま女子二人を引きずるように保健室から放り出した。
「斎賀君も、凉莉ちゃんが寝てるんだから静かにしなきゃ駄目よ」
「すいません。以後気をつけます」
しかし、これだけ騒いでも起きない妹には呆れる……。
そういえば、やかましい目覚ましが三十分鳴り続けても起きなかったっけ。
「それとね。さっきの職員会議で今日は緊急休校が決まったから、生徒の皆は速やかに下校するように」
「……分りました。じゃあ、凉莉おぶって帰ります」
「あら、お母さんは?」
「今の時間帯はパートに出てるんでいないんですよ」
「そう。なら、凉莉ちゃんが起きたら私が家まで送ってあげるわ。ついでにカウンセリングもしておくから、斎賀君はあの二人を連れてもう帰りなさい」
あの二人連れて……? なだめながら帰路につけと?
外からまだ言い争いが聞こえてくる。
僕はかつてないほど苦々しい苦笑いを浮かべる。
「それじゃあ、凉莉のことよろしくお願いします」
「頑張って。あなたの平穏はあなた次第よ」
追牧先生は僕の肩に手を置き、神妙に頷いた。